論理 - 倫理
客体の世界や他者に対する態度が、論理タイプと倫理タイプでは異なります。
倫理的な力は対人関係において表れ、論理的な力は客観的な世界に向けられます。
倫理タイプは、自分が客観的にみて価値のあることを成し遂げられるかどうか不安に感じています。
その一方で、論理タイプたちは他人が自分をどのように見ているかであったり、自分が他人に対してどのような権利を持っているのかを知りません。
論理タイプは、すべてを自分でやろうとします。彼は自分の行為によって、「私がどれだけ他者にとって必要な存在なのか」を証明します:私がしたことを見て、判断し、そしてそれにふさわしい評価をしてください。
倫理タイプは、他者への温かさや気遣いのある態度を持っていて、他者との関係の築き方を知っており、相手の感情(чувствами)や気持ち(эмоциями) [1]を操り、自分が他人に対してどのような権利を持っているのかを知っています。そして、自分自身の力と能力に常に確信が持てず、ひとりでいるときは長い間、苦悩しながら受け身に悩み続けています。
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一般的に、論理タイプはより独立性が高いタイプであると認識されています。しかし、これは見かけだけであり、実際のところ人間関係においては倫理タイプほうが独立性が高いです。
論理タイプな独立性は、客観的な世界の問題や課題を解決する際に現れます。
その一方で、倫理的な独立性は、人間関係の問題を解決し、気持ち(эмоциями)の管理や調整をする際に現れます。
論理タイプが、積極的で強く、善良な人間であろうとする努力はすべて、倫理タイプから気に入られて、評価を得たいという願望に基づいています。
そんな論理タイプですが、彼らは「客観的な問題を解決すること」における倫理タイプの独立性の欠如にしばしば驚かされます。倫理タイプは「人の使い方」を知らず、「人々への影響」を理解していません。
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論理タイプと、倫理タイプの非常に重要な違いは、論理タイプが通常「自分が正しいことを証明」しようとするのに対して、倫理タイプは「相手を説得」しようとするという点です。
論理タイプは、「相手を説得する」ということ自体があまり得意ではなく、相手から説得されると、簡単に屈してしまうほうです。また、論理タイプが交わした約束は、倫理タイプが交わした約束よりも、より信頼できます。なぜなら論理タイプは何があっても約束は守ろうとするからであり、もしも守れなさそうな場合は、「人をだまさない」ために、最初から「約束が守れないかもしれない可能性」を相手に伝えるからです。
一方で、倫理タイプは、「人をだまさない」ことよりも「人間関係を損ねない」ことをもっと重視しています。そのため、しばしば「自分がその約束を果たせるから」ではなく、「良識ある人間だったら普通は約束するから」、他者と約束を交わします。倫理タイプは、自分を嘘つきだとは思っていませんが、注意深い外交官であるとは思っているでしょう。
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他人の行動を評価する際の基準にも違いがあります。論理タイプの場合、主に次の基準を使用します:論理的か非論理的か、正しいか間違っているか、理にかなっているか否か。論理性の人にとって、良いことは理にかなっていることであり、理にかなっていることが悪いはずはありません。
一方、倫理タイプの場合、主に次の基準を使用します:善か悪か、特定の人や団体にとって必要か否か、人道的か非人道的か、正直か不正直か。
倫理タイプは、自分自身や身近な人々を大切にし、その人々のために良いことをするにはどうすればいいかを知っています。しかし、彼らが本当に誠実な気遣いをするのは、彼らが「自分のもの」だと思っている人たちだけです。また、こうして彼らが気遣うだけではなく、相手側にも気遣いを求めます。
そのため、彼らの親しい人々は、彼らの価値を理解し、彼らを愛し、すべての間違いを許します。倫理タイプにとっては、人の権利ではなく、実際に「ひきだす」ことができるもの、手に入れることができるもの、他の人をさまざまな説得や頼みごと、気持ち(эмоциями)で動かすことができるものだけが重要です。最も有力な交渉者は、間違いなく倫理タイプ、特に感覚タイプでもある倫理タイプです。
倫理タイプは、人の感情や気持ち(эмоциями)を操ります。そのため、真実と虚偽は、彼らにとっては相対的な意味を持ちます。倫理タイプにとって、しばしば「他の人たちに喜ばれ、自分にとっても喜ばしいもの・心地よいもの」が真実になります。倫理性の人は、愛され、好かれることを求めて巧みに立ち回ります。彼らは好印象を与える方法を心得ています。自分の行動を報告する際には、皆を賞賛し、何よりも自分自身も上手に称えることができます。どんな集まりでも、どんな人たちとでも、簡単に気に入られて、その場の感情的(эмоциями)ムードの中心になることができます。
一方、論理性の人が何かを報告する際は、まだ出来ていないこと、自分や他人のミスや欠点、短所について話す傾向があります。彼らがそうする理由は、実際の状況を理解し、実際の状況を見極め、現状や今後の展望を示すべきだと考えるからです。
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全ての論理タイプの倫理は規範的です。誰かの定めた倫理規範を厳格に守り、倫理という面では、自分自身にいかなる創造性も許しません。規範を守ることにかけては完璧さを追い求め、本当に達成できたかどうか常に確信が持てません。そうやって努力を重ねても失望することが多いです。
一方、倫理タイプ人の倫理は、多かれ少なかれもっと創造的で、倫理規範よりも具体的な状況を重視します。状況を改善し、より魅力的で、人々に求められて、強力なものにできるものが、より優れた倫理だと考えます。
論理についても同じことが言えます。全ての倫理タイプの論理は規範的です。倫理性の人たちは、厳格にすべての論理的な規範を守ります。科学的であるか、あるいは少なくとも一般的に受け入れられているものであるかどうかを非常に重視します。
彼らは新しい論理的な関係性や、新しい行動の方法を発見・発明することはなく、自分たちの行動や論理的推論について、完璧であると確信することが決してありません。
同じ理由から、倫理タイプの論理的な興味の範囲は幅広く、論理タイプよりも読書家で、さまざまな科学的真理について語ることができます。
そうした倫理性の人と比べると、論理タイプは倫理規範を学ぶことができるようなフィクションを好む傾向が強いです。
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論理タイプが、倫理タイプと比較して知的であるということはありません。また、倫理タイプが、論理タイプと比較して感受性が強いわけでもありません。
しかしながら、倫理タイプは、感情や気持ち(эмоции)の繊細さという点で、論理タイプと区別できます。
両者の本質的な違いは、倫理タイプは、自分の感情だけではなく、他者の感情や気持ち(эмоции)も見て、理解できる点にあります。論理タイプと比較すると、倫理タイプは、あまり具体的ではない行動や、突発的にこぼれる言葉、表情の背後に、他者の複雑な感情の世界を見ています。
論理タイプにとって、自分の感情は理解しにくい謎であり、それを解読する誰かが必要です。
倫理タイプの場合、他者のすべての行動や感情を、まるで自分自身のものを測定するかのように評価します。愛情は倫理的な思考の領域であり、その使命と才能でもあります。
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一方、論理タイプの主要な才能は他者の論理を評価するという点にあります。
論理タイプだけが、倫理タイプの知性と論理性を正しく評価し、それを説明できます。倫理タイプの人が、他者の善良さや経験の深さという点から他者の活動を評価できるのと同じように、論理タイプの人は論理タイプなりの方法で他者の活動を評価できます。
倫理タイプは、自分の仕事の量を評価できず、家事を含むあらゆる仕事に没頭しがちで、自分に休む権利があるのかどうかすら確信を持てません。
そのため、論理的な思考を持つ人と、倫理的な思考を持つ人同士の友情は、(全ての組み合わせでそうとは限りませんが)互いを豊かにし、自己満足感を高めることに繋がります。論理タイプは自分の行動の論理性を疑いません。そして倫理タイプは、そんな論理タイプの行動が善良なものであると信じることができます。
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筆者らの調査によると、男性の場合は論理タイプが、女性の場合は倫理タイプが多い傾向があります。ところで、このように説明すると、男性に多い論理タイプのほうが「男らしい」人だと考えてしまうかもしれませんが、こう考えるのは早計です。
倫理タイプは、論理タイプよりも必要に応じてより社会的に受け入れられやすい在り方を体現しようと努力する傾向があるため、倫理タイプの男性は、いい意味で「男らしく、勇敢な男性」であることが多いです。これと同じ理屈で、倫理タイプの女性は、いかにも女性らしい女性に見えることが多いです。
論理タイプの特徴として、人目を気にして振舞うような、デモンストレーション的な面があまり見られない点が挙げられます。そのため、論理タイプの男性はあまり存在感のない、人目を引かない人が多いです。また、論理タイプの女性(特に外向タイプ)の場合、比較的「男らしい」人に見える傾向があります。
論理的な思考は、自分の労力に見合うだけの価値があるかどうか判別する思考であり、そうした思考を持つ論理タイプの人々は、する必要性のない不合理なことをしたり(例:髪型をコロコロかえたり、マニキュアをしたり、履き心地の悪いヒールの靴をはく等)、目まぐるしく変化する流行に流されるのを避けようとします。
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すでに述べた通り、論理的な思考を持つ人々は、自分の感情について話すことが苦手で、それを避けようとします。誰かを愛しているという感情がある時、彼らは相手のためになる行動をとろうとしますが、それについて話そうとはしません。
恋人との関係で、論理タイプの人々が十分に「あなたを愛している」という態度を示せなかったりするのは、単に倫理的な行動モデルに不慣れだからというだけの話です。このような論理タイプの男性の場合、「愛しています」と自分の感情を表現するよりも、「結婚してください」と言うほうが簡単に感じることが、よくあります。
論理的な思考を持つ人々の感情はデリケートで傷つきやすく、ちょっとしたことですぐに怯えてしまいます。彼らが感情面でタフになるためには、相手からの積極的な感情と、時間が必要になります。論理タイプの女性も同様に、上述した論理タイプの男性と非常によく似た行動をとります。
論理タイプの人々はは、論理的な推論によって自身の感情を検証しながら決定を下すため、倫理タイプよりも感情 [2]が安定しています。また、こと感情という点では、一度下した決定を変更するのにも時間がかかります。そのため、一度誰かと恋愛関係や婚姻関係になると決めた論理タイプの人は、しばしばその決定に、より強く固執します。
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倫理タイプは、意識的に人を愛したり、誰かを愛したいから愛したりします。彼らにとって愛とは、自分自身と他者のために、心地よい気持ち(эмоции)を意識的に作り出すことを意味します。
もしも彼ら(倫理タイプの人)に愛されているかどうかを気に掛ける誰かが表れた場合、彼らの側もまた、その誰かから自分はどれだけ愛されているかを気にします [3]。倫理タイプ相手には「君は私のことを愛していないだろうけど、私は君のことを愛している」という形のアプローチが非常に効果的です。こうした言い回しは、「私の恋心が成就するのは望み薄だけれども、それでもなお愛している」人に対して向けられたアプローチだからです。
逆に倫理タイプの人が誰かにアプローチをかけ、相手がそれに応えない場合、倫理タイプの人はその相手のことを、今度は「愛にするに値しない、非難されるべき人だ」と認識します。
倫理タイプにとって、与えられた感情を返してくれない人は、恩知らずであったり、理不尽であったり、与えられた以上のものを求める人であることを意味します。つまり、あまりにも多くを望んでいて、自分に値する以上のものを望んでいる人のように見えてしまうのです。
そんな倫理タイプの人は、愛の対象が数多く表示されていて [4]、いつそれを止めるべきかわからず、愛は数多くあるように見えても、本当の支えはないという感じるような複雑な生活にしばしば陥りがちです。こういう時の彼らは、パートナーを変えなければならないという奇妙な不安感や、様々な人々の愛の対象になりながら、最終的にはいずれも永続的な愛の対象にはならないという感覚に悩まされています。
倫理タイプにとって、愛は世界で最も重要な問題の一つです。そんな倫理タイプに必要なのは、自分の感情を表に出さず、しかも安定した感情を持つ論理タイプのパートナーです。倫理タイプは、論理タイプの冷静さと論理性に惹かれます。
倫理的な思考を持つ女性が、非常に賢い男性と友達になった場合、彼女は全ての友人を彼と比較するようになります。そして、その男性よりも賢いと思われるパートナーを見つけ出すまで、自分が不運で不幸だと感じることでしょう。これと同じことは、論理的な思考を持つ人にも言えます。
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倫理タイプは、どんな感情も恐れません。愛についても、憎しみについてもそうです。倫理タイプは善なるものを愛し、不快な気持ち(эмоции)を引き起こすものを同じくらい強く憎みます。そして、自分がそう感じていることを隠そうとしません。
そのため、愛に失望した倫理タイプは危険な存在になることがあります [5]。彼らは愛したいと願っています。たとえその感情が不適切な場合であってもです。また、倫理タイプは、ある感情を別の感情に置き換えることができます。例えば、特定の対象への肯定的な感情を、否定的な感情に置き換えてしまうということも出来てしまいます。しかし感情そのものを捨てることはありません。
倫理タイプが、愛していた誰かを「悪い」「価値がない」「浮気をしている」人だと確信してしまうと(実際には何も新しい出来事が起こっていなかったとしても)、肯定的な感情を否定的な感情に置き換え、愛を憎しみに置き換えてしまいます。
もしも倫理タイプのパートナーが、倫理タイプの人からの奉仕と譲歩が無限に続くものであり、倫理タイプの自己犠牲が単なる彼らの性格の一部にすぎなものだと思っているのならば、それは間違いであり、自分の首をしめることにも繋がりかねません。そんな勘違いが続けば、いくら自分の行動の価値を測るのが苦手な倫理タイプであったとしても、いつかは気付くことになります。つまり、自分の気遣いに感謝しない相手の「恩知らずさ」から目をそむけられなくなり、怒りに変わる瞬間が訪れることになります。
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出典の全文訳:人間の双対性(by A. Augusta)
訳注
- ^ чувствамиは「周囲の世界との関係の中で生じる安定した感情体験」という意味。気持ち(эмоциями)は「ある出来事や状況に対する一時的な体験」を意味する。例えば友達や恋人に感じる信頼の感情や、敵対者への憎しみの感情はчувствамиであるが、何か嫌な出来事があって怒る、嬉しいことがあって笑うなどの一時的な感情体験の場合はэмоциямиである。気持ち(эмоциями)はソシオニクスの情報要素 Feに関連する。翻訳ルールとして、本記事で「感情」とのみ訳している部分は「чувствами」のほうをさしている。эмоциямиの場合は、文中にそれがわかるよう記載している。
- ^ この感情は「чувствами」のほうであり、「この人のことが好き」「この人のことが嫌い」という感情が安定しているという意味である。いわゆる「自分の機嫌を自分でコントロールできる人」「ヒステリックになりにくい人」「情緒安定性が高い人」という意味ではないので注意。
^ この記事の倫理タイプの説明では「自分はどれだけ愛されているかを気にします」や「愛に失望した倫理タイプは危険な存在になることがあります」といった特徴が倫理タイプ的な特徴として説明されているが、むしろ論理タイプ、特に暗示機能がFeのタイプ(LII、LSI)の特徴として、これに近い説明がされることもある。論理タイプは倫理タイプと比較して、相手が自分のことをどう感じていそうか推測する力に自信がないため、わざわざ口に出されなくてもある程度自信を持って察することができる倫理タイプよりも疑心暗鬼にかられやすく、極端な判断に陥りやすい。
本記事の出典著者オーシュラの自認タイプはILEであり、彼女が理想とする恋人像がSEI(ILEの双対タイプとしてオーシュラによって設定されているタイプ)であるが、本記事を含めた全体的な印象(サイト管理人個人の印象)として、この文献はILEオーシュラと、オーシュラが思い描く理想の恋人像としての倫理タイプ・SEIのイメージに偏っているのではないかと感じられる部分が散見される。オーシュラがそもそもソシオニクスの生みの親なので、偏っているという言い方は語弊があるかもしれないが。
- ^ 「愛の対象が数多く表示されていて~」:倫理タイプの場合、与えられた感情(この場合は愛)を返さない人は、恩知らずであったり、理不尽であったり、与えられた以上のものを求める人であるという意識があるため、複数人から愛を投げかけられた場合「愛の感情を返す必要性がある人が複数生じてしまいやすい」という意味。
- ^ 注釈 [3]参照。