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愛の性質
性愛はどこからやってくるのでしょうか。
多くの人がこのように考えているかもしれません。しかしながら、愛は1つではなく、完全に独立した2つのニーズ、すなわち「性的な緊張状態の解放のニーズ」と「他者との精神的な結びつきのニーズ」を満たすものです [1]。どちらも知性、文化、社会的状況に依存しており、お互いに関連していますが、お互いの原因ではありません。最も説得力があると思われる仮説は、愛の現象が人間の本質、すなわち、人間は単独では不完全な存在であり、「二対一組のペアになって初めて成り立つ存在である」という本質によって説明されるというものです。
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このことについて、多くの哲学者が考えました。
一人の人間だけでは、まだ完全な人間ではありません。しかし、ペアを形成することで、調和の取れた完全性を獲得します。
とはフォイエルバッハの言です。また、ヘーゲルは次のように述べています。
愛の真なる本質とは、自己の認識を捨て、他者の自己の中に、己の自己を忘却することにあります。そうすることで人は初めて自己を見つけ、自己を所有できるのです。(Gegel. Op., XIII, 1940, p.108)
エーリッヒ・フロムも同様の考え方を示しています。
この難解な現象を説明するために、古代ギリシャ人は、アンドロギュノスの神話を用いました。これはプラトンの著書「饗宴」にて、アリストファネスがソクラテスに語った神話です [2]。
アンドロギュノスの神話:昔々、人間は4本の手、4本の足、2つの頭を持っていました。しかしある時、神ゼウスの怒りを買い、身体を半分に切断されてしまいました。そうして出来たのが、2本の手、2本の足、1つの頭しかない、今の人間の体です。それ以来、人はいつも自分の失われた半身を取り戻して、本来の完全な状態に戻りたいと願い続けているのです。
この神話は、ユーリ・リュリコフの一節にも似ています。
他者との完全な一体感を感じるという身体的な感覚は、まるでファンタジーのようです。我々は普段の状態では他者の感情を感じることはできず、それを共有することもできませんが、強い愛が最も深まった時には、不思議な心理的ファンタジーを体験することがあります。その時、私とあなたという異なる2つの『自己』が消え、まるでお互いに溶け合うかのように統合し、心理的なアンドロギュノスのようになるようです。これは、まるで文字通りの『魂の移住』のようなものです。あたかも自分の『魂』の一部が他者の体に移り住み、他者の神経と一体化して、他者の感情を自分の感情と同じように感じるのです。なぜこれが愛し合う人々・親しい人々の間にしか起らないのかは謎です。心理学者であっても、生物学者であっても、この謎を完全には解明できていません
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もしも性愛が、人間の心理的構造の結果であるのなら、我々はこの愛について、芸術の言葉だけではなく、科学の厳密な言葉でも語ることができるはずです。
人が結婚するのは、なにも「子供を持つため」であったり「性生活を充実させるため」という理由だけではないという考えや、「独身生活を送る中で、あるいは結婚生活を送る中でさえも感じることがある精神的な孤立状態は、人にとって異常状態である」という考えは、結婚とは何かという問題に対する、より重要な着眼点になるかもしれません。
心理的補完性の問題
もし、人が精神的な補完を求めているならば、それは肉体的な魅力を単に感じるパートナーではなく、特定の精神的特性を持つパートナーによって補完されることを意味しています。したがって、補完について考えるのであれば、ここでいう「精神的特性」とは何かを明確化する必要があります。
よく言われるのは「対照的な性質を持っていることが補完には必要不可欠だ」という主張ですが、これはある程度は正しい考えだと思われます。ただし、筆者らの研究では「全て」の性質が対照的である場合は、補完的な関係にならないことが明らかになりました [3]。
特定の性質が対照的である場合 [4]、絶えず緊張状態を引き起こしてしまうか、一方の活動が他方の活動に抑圧される状態に陥ってしまいます。しかしその逆に補完的な対照性も存在します。このような対照性は、人の精神的なバランスを整え、人生を活性化させます。
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この答えは、ピョートル・ガヌシュキン(П. Б. Ганнушкина)、クレッチマー(Kretschmer)、ユング、A.ケンピンスキー(А. Кемпинского)から、アンドレイ・リチコ(А. Е. Личко)、カール・レオンハルト(K. Leonhard)に至るまで、様々な精神科医が利用した各種の分類方法の中に見出せます。
単純に、人にはいわゆる「相性の良い人々のタイプ」と、「相性の悪い人々のタイプ」が存在します。そして、これらの分類法の一つでも知っている人であれば、自分自身でそれを確かめることができます。総じて言えることは、すべての発見と同じように、この答えは非常に単純だということです。なぜ今までこのことに国内外を問わず誰も気づいていなかったのか、不思議でならないほどです。
様々なタイプの人の相性を理解するためには、ユングのタイプ論が最も適しています。他の全てのタイプ論が記述的な性質であるのと比べて、ユングのタイプ論のアプローチは、人間の心理を特定の構造として捉えているからです。では、ここから始めましょう。なお、ユング以外のタイプ論に興味がある人向けに、比較表を提供しておきます(表3) [5]。この表から、あるユングタイプが、他のタイプ論ではどのように呼ばれているかがわかります。
前述の著者たちが、人間同士の相補性の法則になぜ気づかなかったのかという問題が生じるかもしれません [6]。
そうなった理由として考えられるのは、まず第一に、おそらく彼らが精神科医だったからではないかと思われます。つまり、精神科医という仕事の性質上、相手にするのは個々の患者相手に研究することが多かったため、個々のタイプの性質を掘り下げることはできても、日常的な小規模グループの中で、それらのタイプがどのように相互作用するのかを観察する機会にはあまり恵まれなかったからではないかと思われます。
さらに、「完全に精神的に健全な人々は、皆同じような特徴がある」「特定の典型的な特性は、正常状態から逸脱した場合にのみ現れる」という考えが昔は一般的だったのも理由のひとつかもしれません。
しかし、健全な人は皆『平均的』な特性を持っているのだとか、異常な行動を示す患者だけが、特定の強調(アクセント)や精神病質的な典型的特徴を見せるのだというのは誤りです。例えばA.E.リチコは、「特定のアクセントは、特定の人格タイプに基づいて現れる」と明確に説明しています。
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筆者から付け加えると、人間のタイプは精神的なものだけでなく、身体的な疾患の傾向も左右します。
ユングのタイプ論の利点
ユングのタイプ論が持つ、一つ目の利点にはすでに触れました。それは構造的なアプローチだという点です。さらにいえば、ユングは健全な人の分類に焦点を当てており、健常者を表現するには不適当な用語の使用を避けていますが、これも利点だと言えます(表3参照)。
ユングがタイプ論で使用した用語は、精神的な異常性を含んだ用語ではありません。心理機能と呼ぶ、人の精神の最も強力な側面に関連した用語が使用されています。ユングにおける主要な機能は、世界の側面を理解するにあたって使用される特定の力を意味しています。
これらの機能は、我々ソシオニクスの理論家が人間の情報代謝要素(IM, Information elements)として呼ぶものです。
残念ながら、ユングの用語が情報代謝要素に完全に一致しているわけではありません。ソシオニクスでは、ユングが思考と呼んでいたものを論理、感情と呼んでいたものを倫理と呼んでいます。「この名前が完璧なもので、今後これを超えるような適当な名前が見つかることはない」と主張するつもりはありませんが、少なくともユングの思考や感情という用語よりは正確だと思われます。
例えばユングが思考タイプと感情タイプを対比させた場合、前者が思考、後者が感情で生きている人だという印象までついてしまうかもしれません。実際には、思考タイプも、感情タイプも「思考」しています。ただ、異なることを思考しているだけです。思考タイプは客観的なことについて、後者は自分たちを取り巻く世界について、主観的に思考しています [7]。
思考タイプ・感情タイプという用語には、このような一種の誤解の誘発のしやすさがあります。それを踏まえると、まだ論理タイプ、倫理タイプという言い方をした方が誤解が起こりにくいのではないかと筆者は考えています。例えばユングの感情タイプ(ソシオニクスの倫理タイプ)を説明するにあたって、「これらの人々は、倫理的な思考が優勢です」というほうが、「感情的な思考が優勢です」というよりも不自然には聞こえないことでしょう。 「倫理的」思考の人々は、倫理的な視点から評価し、関係と行動の倫理性と非倫理性を判断する傾向があります。そして「論理的」思考の人々は、関係と行動の論理性と非論理性に注目しています。
こうした理由から、筆者らは一方ではユングの原則に従って、人の精神の最も発達した側面に基づいた名前を使い続けることにしましたが、その一方で、その呼び方には変更を加えることにしました。ユングにおける思考、感情、感覚、直観の代わりに、ソシオニクスでは論理、倫理、感覚、直観という用語を使用します。
筆者らが行った第二の変更は、名前の二重化です [8]。ユング自身が主張しており、我々も実践を通して確信していることですが、人の性格は1つ、または2つの機能によって決定されます [9]。
例えば「論理タイプ」とだけ言っても、「どのような論理タイプなのか」は不明瞭なままです。感覚と関連する論理タイプなのか、それとも直観と関連する論理タイプなのかがこれだけではわかりません。そして、感覚に関連する論理タイプと、直観に関連する論理タイプは非常に大きく異なるものです。
感覚と関連するタイプは、実践的で行動力があります。一方、直観と関連するタイプは、戦術的というよりは戦略的で、理論や哲学的思考に興味を持ちやすい、空中に城を建てる(つまり非現実的で、実現可能性のない夢や空想に耽ること)人たちです。タイプです。
この二つは、日常生活のあらゆる面や細かい点で異なっています。
感覚と関連するタイプの人は、常に整然としていて、美しいものと美しくないものに対する理解を持っています。直観と関連するタイプの人は、散漫で、できるだけ整然としようと努力はしても、常にそれが成功するわけではありません。
筆者らはソシオニクスを構築するにあたり、ユングの「外向的(экстравертированный)」-「内向的(интровертированный)」という用語を、現在一般的な「外向的(экстраверт)」-「内向的(интроверт)」という用語に置き換えましたが、さらにいえば、これはクレッチマーの用語「分裂性(шизотим )」-「循環性(циклотим)」 [10]から派生して生まれた「外向性(экстратим )」-「内向性(интротим)」のほうがもっと適切だと考えています。アイゼンクの研究の影響で、社交的な人のことを外向型、内向的な人のことを内向型と、のべつまくなしに呼称する傾向が広がり、「外向性」「内向性」という用語があいまいなものになってしまったからです。
ユーモアのセンスと16種類の情報代謝タイプ
個人のタイプの違いは、環境との情報信号の交換の違いに過ぎないため、ソシオニクスでは個人のタイプのことを「情報代謝タイプ」と呼びます。これは言い換えるなら情報代謝の種類とも言えます。
情報代謝が、ここでどのようにかかわっているのでしょうか。
実のところ、我々人間の精神は、自分の周りの世界を「特定の構成要素」や「側面(アスペクト)」に分けることがあります。
こうしてわけられた側面の中には、その人から見て「とても識別しやすく明確な情報」を受け取りやすい側面もあれば、その逆に「識別しにくい、圧縮された情報」としてしか受け取れない側面もあります。そしてソシオニクスのタイプに応じて、受け取りやすい1つの側面と、それ以外の受け取りにくい複数の側面がそれぞれ異なっています。
したがって異なるタイプの人々は、同じ状況に出会った場合でも、全く異なることを想起し、全く異なる言葉で語ります。タイプによって様々な表情を見せながら、出来事の異なる側面を強調します。
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なぜある人が他の人に魅力を感じさせたり、好感を持たれたりする一方で、別の人が嫌われたり、うんざりされたりするのでしょうか。それはどのような言葉で思考し、どのような表情、ジェスチャー、抑揚でその思考を表出するかが異なっているからです。
一人の人が他の人を傷つける場合、行動そのものよりも、その行動をどのように説明し、どの動機からその行動をとったと推測するかのほうが重要です。
ある人が誰かを怒らせたとします。ここで「なぜ怒らせたのか」考える際に着目すべきは、「ある人がどのような行動をしたか」という点ではなく、「別のある人から見て、その行動はどのような動機から生じた行動だと推測されたのか」という点です。ある人には許容できることであっても、別の人からすると許せないことがあるということです。
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情報代謝と言う用語は、ポーランドの精神医学者であるA. ケンピンスキーによる古典的な用語から借用したものです。「人が抱く不快感の根本には、情報代謝の阻害がある」という説明を初めてしたのは、おそらくA. ケンピンスキーです。
この「情報代謝の阻害」がなぜ生じたのかという点は、今では「ある人が必要としている刺激信号を、他者から不十分な形で受け取ったから阻害が生じた」「他者から過剰で不要な刺激を受け取ったから…言い換えるなら、理解しにくく、受け入れにくい方法で刺激信号を送られたから阻害が生じた」という形で説明できることを、我々は知っています。
自分に適さない情報代謝タイプの人々の発言やジョークは、有益な情報であったり安心感を与えるものであるどころか、ただイライラさせられてトラウマを植え付けられるだけで終わることが多いです。どんなジョークも、それが何かの切実な疑問に偶然のような答えを与え、私たちを落ち着かせてくれる場合にのみ、ジョークとして受け入れられます。全ての人のユーモアには限界があります。なぜなら人によって、安心を感じるものが異なるからです。私たちは、誰かのジョークに腹を立てた時、単にその人にはユーモアのセンスがなと考えてしまいがちですが、実のところ、それは私のユーモアと、その人のユーモアが違うだけです。ただ、ある人は、別のある人とは別の言葉で、全く別のことについてジョークを言う傾向があると言うだけの話なのです。
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情報代謝タイプは全部で16種類あります。この中には、環境から特定の信号を選別することに長けているタイプもいれば、別の信号を選別することに長けているタイプもあります。あるタイプであれば利用できることであっても、別のタイプには利用できないことがあります。あることについて、ぼんやりしていて忘れやすいタイプもあれば、別のことを忘れやすいタイプもあります。
これらのタイプは一体どのようにして現れたのでしょうか。おそらく、人間の進化の長い道のりにおいて、個々人の精神は特定の一面に特化・専門化していき、その結果、ある種の偏りを持つようになったと考えられます [11]。偏りが大きくなるに伴って、相反する精神的特性を持つペアが形成されていきました。子供の一方の特性が急速に発展すると、それと対になるもう一方の特性の発展が遅れます。そのため、人の精神的構造や性格は非対称で片寄っています。
人間は社会的な存在ですが、その理由は人が行う生産活動が社会的なものだというだけでなく、精神の発達が偏っているために、自分とは異なる精神的構造を持つ人々との交流や協力という社会的環境の中で、他者との精神的補完を行う必要性があるからです。
異なる精神的構造を持つ人々から精神的なサポートを得ることで、人々はより目標志向的で、より決然として、より効果的に行動できます。これが、簡単に協力し合うための秘訣のひとつです。
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コミュニケーションや相互理解において重要なポイントになるのは、その人個人の知的レベルと属する文化です。しかしながら精神的な補完と精神的な相補性において最も重要なことは、情報代謝タイプです。このタイプは、精神が受け取る情報の選択と、情報の処理手順によって決まります。この処理手順は、人の心理的特性の多くを決定します:嗜好、能力、関心事項、活動形態、目標設定と行動の動機、他者との関係、美的嗜好、性的嗜好。各人が、自分の身近な人に異なる行動を望んでいます。「愛している」という陳腐な言葉ではなく、愛する人のシンパシーの形が必要です。これは説得力があって、受け入れることができて、心を満たすものでなければなりません。
興味と能力分野の差異
この章の翻訳は「情報要素の原点(by A. Augusta)」を参照。
愛の認識
愛は意識的な現象でしょうか。それとも無意識的な現象でしょうか。
人が自分の意志で、他の人々の中から特定の一人を選び、愛している時の愛は、意識に従属しています。それは、その特定の一人に、より強い興味深さや、貴重さや、利用しやすさなど、何らかの選択を行わせるに至る意識の存在を示唆するものであるからです。これは選択による愛です。
そしてオブジェクト(つまり客体、より平易に言い換えればあなたが選んだ恋人)が、あなたの希望を満たさず、その一方でより適切な別のオブジェクトを見つける機会が訪れた場合、あなたの選択は、非常に静かに放棄されます(つまり一度選んだ恋人を捨て去ってしまいます)。とはいえ、誰もがこうした選択による愛を好むわけではありません。感覚倫理タイプの情報代謝を持つ人々だけが、この方法を好みます。
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感覚と倫理の要素が発達していない人(論理直観タイプ)は、上述のような選択によって人を愛するわけではありません。愛は、彼らが行うことではなく、彼らと共有されるものです。
ある人々は、感情が意識されている一方で、無意識に魅力を感じる人がいます(直観倫理タイプ)。別のある人々は、人に魅力を感じるという部分が意識的である一方で、感情は意識の制御下にありません(感覚論理タイプ) [12]。
すべての倫理的な人々 (第1機能か第2機能が倫理的な情報要素である人) は、自分自身と他の人々の感情に精通しています(誰が誰を好きで、嫌いなのか、誰が誰のことをどう感じているのかという感情にも精通していますし、誰が今怒っているのか、悲しんでいるのか、楽しんでいるのかという感情にも精通しています)。一方、いかなる感情も理性に反する弱点とみなされるため、論理的な人々の感情はすべて排除され、黙殺されています。言い換えると、論理タイプの感情にはほとんど無意識で、意識的なコントロールの影響を受けません。
感覚的な人々は皆、自分自身と他人の身体的ニーズの両方に精通しています。彼らは自分の身体的データを評価し、それを活用する力に長けています。彼らは優雅な動きや優美な仕草でパートナーの注目を惹きつけます。
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直観的な人々は、こと「魅力」という点においては、せいぜい人から口で言われたことを信じるだけです。しかも彼らがそれを信じるのは、相手がその発言をしている間だけです。そのため、彼らは魅力という情報の取り扱いに長けた人に依存してしまうことを常に恐れています。論理的な人々が自分が愛されていると信じたがらないのと同じように、直観的な人々は、何が魅力的で、何が美しく、どのような身体的ニーズが、どのような形で存在するのかを常に疑っています。
感覚的な人々は、注目を惹きつけるために優雅であろうとします。直観的な人の中にも、感覚的な人々以上に優雅な人は多くいますが、直観的な人の優雅さは、むしろ人目をひかないために生み出された優雅さです。彼らはその優雅さの影に身を潜めようとします。
感覚的な人々は、自分の魅力の感覚に自信を持つだけではなく、他者にもその感覚の正しさを納得させることに長けています。魅力の感覚は彼らの美しく健康的な性質の一部であり、それにまつわる一連の現象は、彼らにとっては非常に馴染み深く、わかりやすい話です。一方、直観的な人々は、自分自身の魅力の感覚を恥じてさえいます。その感覚の正しさを他者に押し付けるなど、考えもしないことです。
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一般化すれば、ある者は愛したいと思い、ある者は愛されたいと思い、ある者は欲望を抱き、ある者は欲望を抱かれたいと思います。ある者は愛の主体となり、ある者は対象となります。そのため、すべての主導権を完全に握る人々がいれば、部分的に主導権を握る傾向のある人、すべてをパートナーに任せてしまう人もいます。ここから、精神的に補完し合えるパートナーの選別が始まります。なぜなら、もしも二人ともが同じように自発的な人同士であったり、同じように非自発的な人同士であれば、友情は簡単に終わってしまうからです。主導権を奪い合う競争にうんざりするか、パートナーの気持ちへの相互不信からの緊張が生じます。
あるタイプが愛と呼ぶものは、あるタイプにとってはまさに愛であり、敬意を感じさせられるものであるかもしれませんが、別のあるタイプにとって、それは愛の欠如の証拠にしか見えないかもしれません。友人関係に不満が現れた場合(この不満は通常、慎重に隠されることが多いですが)、おそらく、事前に考慮する必要がある精神的な不一致が両者にはあるかもしれません。パートナーが互いに完全に調和している場合、彼らは互いのあらゆる行動、言葉、気分の動機を理解しているため、不注意な言葉やジェスチャーで気分を害してしまうことが起こりません。逆に、もしもそうしたことが起こるのであれば、相手が自分に適した精神構造を持ったパートナーではないことを示唆する「赤信号」のようなものです。
それでも往々にして人はこの赤信号を直視したがらず、「今は上手くいっていなくても、将来何かが変わるかもしれない」と期待をしてしまいます。しかしながら、幼少期に形成された精神構造に由来するものを変えることは出来ません。赤信号を無視するほどに、両者のギャップはますます大きくなっていくことでしょう。
パートナーを選ぶ際に考慮すべき個人の資質
合理と非合理(分裂性 - 循環性)
この章の翻訳は合理と非合理(by A. Augusta)を参照。
外向と内向
この章の翻訳は外向と内向(by A. Augusta)を参照。
論理と倫理
この章の翻訳は論理と倫理(by A. Augusta)を参照。
直観と感覚
この章の翻訳は直観と感覚(by A. Augusta)を参照。
静的と動的
この章の翻訳は静的と動的(by A. Augusta)を参照。
質問と宣言
この章の翻訳は質問と宣言(by A. Augusta)を参照。
心理的補完が人にもたらすもの
外向と内向、感覚と直観、論理と倫理、これらの両方の極性を一人で持ち合わせている人はいません。人の精神は、このどちらかの極のみで形成される磁石に似ています。極がコロコロ変わったりもしません。人はどちらかの極に偏っており、反対側の極を持っているのは、自分以外の誰かだけです。
二つの情報代謝タイプ間の関係のうち、両者が互いを補完するために必要な性質を備えている関係は補完的な関係(双対関係)と呼ぶことができます。そして、こうしたタイプ間の関係プロセスを双対化と呼びます。
社会における人間の生活は、その双対性によって複雑になります。16種類のタイプ間にはこのような補完的関係ではない他の様々な関係性もあるため、その複雑性はさらに増します。さらに付け加えると、双対関係を構築できていない人々というのは、自分の飢えの本質が何なのか、その責任が誰にあるのかを知らない、落ち着きのない、精神的に飢えた存在です。そのような人は、自分が「理解されていない」と感じていますが、その責任が自分自身にあるのか、「困難な子供時代」にあるのか、配偶者にあるのか、それとも社会の誰にあるのかはわかりません。このような状態では、世界との調和が難しくなり、様々な争いや矛盾、無意味な攻撃性が積み重なっていきます。人は答えを求めて他人に手を伸ばしますが、多くの場合、自分自身や人間関係についてのさらなる混乱に悩まされることになります。適切な条件、適切なミクロ環境が整わない限り、自分が本当に必要としている存在を見つけ出すことは困難です。
個人の健康と社会的役割にとって、配偶者となった二人の人間から構成されるペアの心理的構造は極めて重要です。自分以外の誰かとペアを形成せず、一人だけで調和のとれた人格を構成することは、人間には不可能です。ただ愛し、愛されるだけではなく、精神的に補完し合う双対化したパートナーがいる時、人という存在は調和します。結婚とは、パートナーと性的な関係を結ぶ権利を得るものというだけではなく、精神的な補完の権利であり、自己の個性を拡大する権利であり、自分の精神を双対化する権利を得るものあります。
したがって、若者が家庭生活に備えるにあたって重要なことは、完全に適したパートナーを選択するために、または完全に適していないパートナーに適応するために、精神的構造の違いを学ぶことです。パートナーの受け入れがたい行動は彼の邪悪な意志によって生じたものではなく、ただ客観的な心理構造によって生じたものだと理解できれば、少なくともパートナーに、部分的に、意識的に適応する道が開けます。さらにいえば、あなたが完全に満足していないパートナーを、あなた自身も完全に満足させることはできないと理解すると、妥協点を模索しやすくなります。
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若者の人間関係をより深く分析した結果、精神構造は、結婚後の行動だけでなく、結婚相手を探す段階の行動にも影響を与えることが明らかになりました。
人が主導権を奪おうとしたり、避けようとする方法、人を惹きつける方法、浮気をする方法、そして自制心や独立性を強調する方法は、精神的に不適切なパートナーから不要な注目を集めないようにしつつ、適切なパートナーを自分に引き付けるための複雑な防衛メカニズムとして機能します。精神構造によって、人からの好意を受け入れたり、自分の好意を示すシステムが異なっています。
言い換えれば、状況が悪くない限り、特に意識したり、特別な知識を学んだりしなくても、人の精神はごく自然に自分の適切なパートナーを探し出せるよう設計されていると言えます。このシステムは、幼い頃から(つまり精神的欲求と、性的欲求を混同する危険性がない年齢から)顔見知りだった人間同士のつながりの中から適切なパートナー選びをするだけでよかった時代であれば十分に機能したはずです。あるいは、結婚という契約に縛られずに、人が自由にパートナーになり、自由に別れることができた時代があったとすれば、それでも十分に機能したことでしょう。しかし現代社会を生きる我々には、先天的に備わっているこのシステムの他に、ほんの少しの心理学的な知識が必要になります。
完全な配偶者ペアになるためには、補完的な関係が必要不可欠です。しかし現実には、このような結婚は少数です。これは結婚が早すぎるせいではありません。むしろ人と人とが知り合うのが遅すぎるせいで、適切なパートナーを見つけ出すためのシステムが十分に機能できていないのが原因です。また、知人、友人の範囲が狭すぎることや、精神的相補性の法則に対する無知も、この問題を悪化させる一因です。結婚する必要性にかられて、結婚相手を探す中で出会った人を判別するには、このシステムは不十分です。このような状況では人に備わった複雑な防衛メカニズムは正常に機能せず、性的魅力に目がくらんで、その衝撃を「真実の愛」だと誤解しがちです。しかし結局のところ、人がパートナーに期待するのは完全な精神の完成と、精神のバランスだけです。性的魅力があっても、精神的補完を望めないパートナーとの関係では、完全な精神の完成も、精神のバランスも期待できません。
相補的な精神を持つ人のことを、人は互いにどのように認識するでしょうか。その答えは、最も「人間らしい」人間として認識する、です。最も人間らしくて、優しくて、親しみやすく、色々なことにきちんと反応してくれる人、それがあなたにとっての相補的な精神を持つ人です。さらにいえば、補完的な精神を持つ人というのは、いつ何をすべきか、どのように反応をすべきか、何をアドバイスすべきかを熟知していて、緊張を和らげるためのジョークのセンスに優れているように感じられる人です。すべてを理解していて、サポートする力が優れていて、人を守ることができ、決して気分を害したりせず、そしておそらくさらに重要なことに、彼らもまた、決して気分を害しそうもない人だとあなたは感じることでしょう。補完的なパートナーによる補完が行われている人は(つまり双対関係の人がパートナーになっている人は)、誰もがより積極的になり、より強く、より正しいと感じることができるようになります。一方そうでない人は、あらゆる活動において、常に自分の能力の限界を見失っていて、アンバランスな状態に陥っているように見えます。「休息」というものは、体力を回復させるためではなく、精神のバランスを取り戻すために必要なのです。
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多くの人は、精神的な補完化(双対化)とは何かを知りませんし、それがあることを感じもしませんし、探そうともしません。結婚前の友情の段階では、穏やかな精神的な安らぎを伴う補完ではなく、「偉大な無私無欲」を求める傾向が極めて強いです。そして苦しみ。愛という感情には必ず霊的な苦しみが伴うということは確かです。しかし、これは恋人たちがお互いを補完し合っていない場合にのみ当てはまります。
双対化は人の自尊心を高めます。双対パートナーのおかげで、人は他者に対する自分の有用性と、社会における自分の居場所を常に認識し続けることができます。また、こうした点の信頼できる情報を常にパートナーから得ることができるようにもなります。劣等感を抱いたり、自分の場違いさに思い悩む生活とは無縁になります。人は自分の補完的な人物のことを「王子様」とか「王女様」のようには感じません。その人の隣にいることで、自分自身が王になれます。
誰もが時々苦い気分になり、それが不機嫌さが現れることがあります。注目すべきは、双対パートナーがこうした不機嫌さを見ても、それを非難の雨だとは認識しない点です。しばしば、不平不満や不機嫌な気持ちは、最も率直で相互理解を得られるコミュニケーションスタイルとして機能します。こうしたスタイルのコミュニケーションであれば、非常に短い時間であっても、言葉を尽くさなくても、たくさんの情報(例えば客観的な世界で何が起こっているのかであったり、そして何よりも自分の心配や不明点であったり等)を包括的に伝えることができます。不機嫌とは、パートナーに対して、理解できないことを説明してほしいという半ば意識的な要求にすぎません。この不平不満に正しく反応し、必要な答えや説明を与えることは、双対パートナー以外には誰にもできないことであり、それ以外の人にとって、時にはただ黙っていることさえできません。
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職場や家庭生活における人間関係の苛立ちや対立の原因は、意見衝突やイニシアチブの奪い争いが起きてしまう点や、一方が他方の意見や意志を拾い上げてサポートできない点にあります。双対であれば、このような時に衝突は起こりません。調和的に噛み合い続ける双対ペアは、相互に活性化し合い、バランスを保ち続けることができます。双対ペアの場合、一方がイニシアチブを取っても、適切なタイミングがやってくれば、相手にそれを気持ちよく譲り渡せます。こうして交互にイニシアチブを渡し合い、相互に活性化しあうことで、ささいな不平不満や問題点も取り残されることなく解消されやすく、生産性も向上するため、ひとつひとつの作業にかかる時間も短くなり、フラストレーションが起こりにくい土壌が育まれていきます。一方のパートナーが行うことを、もう一方のパートナーは、非常に貴重で希少な能力やスキルの表れとして認識します。絶え間ない驚嘆と、適切な賞賛は(何でもかんでも手放しに賞賛するわけではなく、あくまでも適切な賞賛は)、人の感情を高揚させ、奮い立たせます。双対パートナー同士は、互いに破壊的な影響を望まないだけではなく、そうした影響を与えること自体できません。互いを傷付ける言葉を持たないため、破壊的影響を与える機会自体がないのです。結局のところ、人が人を怒らせるのは、人の行動ではありません。その行動を説明する言葉であったり、どのような動機を前面に押し出したかであったり、行動の説明に際して、どのような表情・表現を見せたか次第です。共通の趣味があれば集まり、それがなくなれば離れるというのは、複雑さが無く、非常に簡単に起ることです。もしも双対ペアが結婚した場合、二人で会った人間は、そうして簡単に離れることがない、たった一人の人間に統合したかのようになります。
このようなパートナーには、意識して譲歩する必要性すらありません。ごく自然に、すべてがうまく進行するからです。二人の関係には真面目なビジネスをする関係もあれば、遊びのための友人関係もありますが、いずれにせよ怒りが渦巻いたり、攻撃性が見られたりは決してしません。
人間の双対性の現象は、次のようにも説明できます。双対ペアの情報代謝(IM; information metabolism)およびエネルギー代謝 (EM; energy metabolism) のメカニズムがこの現象の基礎となっております。双対の情報代謝およびエネルギー代謝には同一性があります。しかし同時に、片方のパートナーでは明確に表現されている情報代謝とエネルギー代謝のリンクは、もう一方のパートナーでは最も未発達な状態にあります。そのため、どんな共同活動においても、うまく互いを影で支え合えます。この同一性と相補性は、あらゆる共同活動で発揮されます。これは、新しい仕事を始めるときに特に顕著です。一方のパートナーの言葉やジェスチャーが、もう一方のパートナーの心に火を灯す形で機能します。さらにいえば、仕事だけではなく、セクシャルなゲームにおいてもこれが上手く機能することになります。この問題について、心理学者のN. ゴボゾフとA. ゴボゾフは「夫婦間の困難の診断」という記事で次のように書いています:「…精神生理学的コミュニケーションでは、パートナーの純粋な性的特徴(性的体質のタイプ、性的能力など)だけでなく、…体の反応性、行動の精神力学的特徴も重要です。…その結果、一部の夫婦においては、狭義の性的接触ではなく、エロティックな遊びや性的興味の現れ方が原因で、パートナーへの不満が生じます」(『心理学ジャーナル』、1982年、第2号、147ページ)
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したがって、一度自分の双対である人と結ばれた人には、別の人間に乗り換えようとする傾向が見られないことを付け加えておきます。両者が相互補完的な態度で接している場合、性的な面での相性の悪さを感じることもありません。双対ペアは、お互いの性的な面への魅力を見失うことなく、長い間そうした方面での交流も重ねることになるでしょう。
情報代謝タイプの種類によって性行動は大きく異なります。だからこそ、真の性的適合性については、補完関係にある人々(双対ペア)の間でしか語ることが出来ません。例えばSEEとSEIという正反対のペアを通して考えてみましょう。SEEのSe、SEIのSiという反対の感覚システムは、それぞれパートナーに対して正反対の「感覚的」な行動を指示します。SEIはパートナーとの関係で、互いの素肌の表面全体を「愛」します。ここでは突然な動きはなく、パートナーは互いの腕の中で溶け合っているかのようです。一方SEEはパートナーとの関係において、素肌に触れたり、溶け合うような愛し方をしません。もっと予想外の、ほとんど体操のような動きやポーズをたくさんとりながら「愛」を示します。興味深いことに、Seタイプの人々は、他者との接触全般を避ける傾向が強いです。この回避対象には、医者の触診でさえも含まれます。他の人と握手をすることはありますが、それは彼ら自身の意志で手を差し伸べて握手した場合に限られます。
そして双対タイプ同士の結婚では、一時的な誤解が起こり得ます。こういった誤解は、精神的な補完のない家庭で育ち、補完関係が人にとってどれほど自由で自然なものなのかを感じたことがなく、そのために自分自身に精神的な補完を求める性質があるという自覚がなかったり、薄かったりする人によく起こります。補完的な関係では、パートナーを「プログラミング」する力が求められます。そしてこの力は、人が「魂の命令」に従って行動する時にこそ発揮できます。少なくとも双対ペアを構成するパートナーのどちらか一人だけでもこの自発性を持っている場合、もう片方のパートナーはすぐに「プログラムを受け取ること」「与えること」、つまり自分のパートナーをプログラムすることの両方をすぐに学びます。
夫婦が相補的な性格タイプを持っている協調的な家族では、基本的に子供は親と同じ情報代謝タイプを獲得します(循環性(=非合理性)の親の元に、分裂性(=合理性)の子が生まれた場合、あるいはその逆の場合は例外です) [13]。娘はほとんどの場合、母親と同じタイプになり、息子は父親と同じタイプになります。子供たちが、双対関係を形成している親自身の手によって育てられる限り、娘は父親と兄弟によって補完され、息子は母親と姉妹によって補完されます。こうした家庭は、最も調和がとれた最高の家庭だと言えるでしょう。こうした環境では子育ての難易度も大幅に下がります。天性の子育ての才を持つ親だと羨ましがられることでしょう。
同一関係は、双対関係と同様に、子供の安定した精神の形成に必要です。同一関係の人間ほど優れた教師は存在せず、双対関係の人間ほど優れた養育者は存在しません。そのため両親が互いに補完し合う家庭では、子供の養育と社会化に最適な条件が形成されます。両親のどちらかが、自分の補完的なタイプの精神を持っていた場合、人々にとって価値があり重要であるという自己価値感が育まれます。幼少期から生涯にわたって、家族や職場で理解され、愛されることを確信しています。軽快な気質を持ち、神経バランスは安定していて、より社交的です。一方で親に「恵まれなかった」人は、常に何らかの形で迷いや罪悪感、自分自身の不要感を感じ、精神的な免疫力を欠き、外向的な人は攻撃的に、内向的な人は同調的になります。争いに巻き込まれやすく、神経症や慢性的な疾患に苦しむことが多いです。双対による補完関係は、精神的な成功だけでなく、肉体的な機能を成功させるための前提条件でもあります。双対によって補完された精神を持つ人々は、はるかに病気になりにくく、より早く回復します。
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精神的補完は、人の健康に影響を及ぼします。なぜなら各情報要素は、特定の客観的現実を反映するだけではなく、身体面の制御にも関わっているからです。それぞれの情報要素の背後には、特定の経絡と、それらがコントロールする身体システムがあります。最も発達した情報要素の背後にあるシステムは、最も病気の危険性が低いです。双対関係の場合、互いの主導機能が、互いの持つ最も病気にかかりやすい部分をケアしあうことになります。
筆者らの仮説によれば、情報要素は次のような形で経絡と結びついています:
- Ne:督脈(背中に走っている経絡)
- Fe:胃と膵臓の経線
- Se:膀胱と腎臓の経絡
- Te:胆嚢と肝臓の経絡
- Ni:任脈(腹側に走っている経絡)
- Fi:心臓と小腸の経線
- Si:心包(心臓を包む膜状の仮想的な臓器)と三焦(胸部にある呼吸・血脈を司る仮想的な臓器)の経絡
- Ti:肺と大腸の経絡
筆者らは、この仮説を裏付ける観察結果を得ています。例えばTeタイプの人は心臓に、Feタイプの人は腎臓に、Neタイプの人は胃、膵臓、肝臓の病気になりやすいです。
結婚相手を探す段階における態度と感情の表れ方
上記のすべてを踏まえれば、この研究の主要な課題である、結婚相手を探す段階におけるさまざまな種類の情報代謝タイプの具体的な行動の検討が可能です。
この検討にあたり、16種類の情報代謝タイプを4種類のグループに分けます。これらのグループは、関連性のある2タイプのペアから形成されています。このペアとなるタイプ同士は、ある程度行動が類似しています。
外向論理と内向倫理
LSE-EII
この章の翻訳は双対関係:LSE-EII(by A. Augusta)を参照。
LSE-EII
この章の翻訳は双対関係:LIE-ESI(by A. Augusta)を参照。
外向倫理と内向論理
ESE-LII
この章の翻訳は双対関係:ESE-LII(by A. Augusta)を参照。
EIE−LSI
この章の翻訳は双対関係:EIE−LSI(by A. Augusta)を参照。
外向感覚と内向直観
SLE−IEI
この章の翻訳は双対関係:SLE−IEI(by A. Augusta)を参照。
SEE−ILI
この章の翻訳は双対関係:SEE−ILI(by A. Augusta)を参照。
外向直観と内向感覚
ILE-SEI
この章の翻訳は双対関係:ILE-SEI(by A. Augusta)を参照。
IEE-SLI
この章の翻訳は双対関係:IEE-SLI(by A. Augusta)を参照。
著者あとがき
人の16タイプの異なる性格と関係のパターンについての科学であるソシオニクスという新しい科学が生まれつつあります。本研究は ひとつの関係、つまり双対関係に特化しています。しかし全16種類のタイプがあり、16種類の異なる関係性(同一関係や活性化関係、衝突関係、監督関係、要求関係など)があります。それらの中には、活性化関係など、人間の精神にプラスの影響を与えるものもある一方で、衝突関係や監督関係など、マイナスの影響を与えるものもあります。これらすべては、筆者らの他の著書「タイプ間関係の理論」(1982 年) で説明しています。
本研究の主な目的は、愛の表現においても、他のすべての人間のコミュニケーションと同様に、正しい方法や間違った方法、良い方法や悪い方法は存在しないことを示すことです。ただ、タイプごとに、適切なタイプとそうではないタイプがあるというだけです。そのうえ、さらにバランスの取れた精神の持ち主もいます。適切なタイプの人々の中で育ち、生活し、働いて成功した人々がそうです。そして精神のバランスが取れていない人もいます。不適切なタイプの人々に囲まれ、その環境から破壊的な影響を受けてしまった人々がそうです。
人は常に他者と仲良く生きることを、理解されることを夢見て、他者を理解したいと願ってきました。周囲の善良さを求め、自らも善良でありたいと願ってきました。そうして誰もが願ってきたことですが、成功した人はほとんどいませんでした。今日、私たちは、人がその多様な性質と、それぞれのタイプの背後に隠されたコミュニケーションのパターンを理解しない限り、社会と個人の真に調和した、平和で創造的な生活を夢見ることはできないことを知っています。これから訪れる全く新しい社会は、個々の人々が精神的、身体的健康に適した人々と十分な接触の機会を得られる社会になるかもしれません。この夢がいつ実現するかはわかりませんが、他に道はありません。
訳注
- ^ 本稿では、「性的な緊張状態の解放のニーズ」は感覚、「他者との精神的な結びつきのニーズ」は感情に紐づけて説明されている。
- ^ アンドロギュノスのアンドロは「男」、ギュノスは「女」という意味。男の肉体と女の肉体の両方を持つ存在のこと。このアンドロギュノスと似たような話に、日本の山口県の昔話「夫婦のむかし」というものがある。
- ^ ソシオニクスの双対関係と衝突関係のこと。外向/内向、直観/感覚、論理/倫理は対照的であるほうが相性がいいが、合理/非合理は同じである方が相性がよく(双対関係)、合理/非合理まで対照的な場合の相性は悪い(衝突関係)。
- ^ 合理/非合理が異なるタイプ同士の組み合わせのこと。
- ^ 表3の翻訳は記事「合理と非合理(by A. Augusta)」参照。
- ^ 非恋愛関係を含めた話ではあるものの、ユングは人と人をペアとして引き合わせる場合、嫌でも劣等機能の問題に直面して、そこに向き合わせるようにするために、劣等機能が同じ人同士を組み合わせることが多かった。スイスのフォン・フランツというユング研究所の分析家もまた「優越機能が発揮され過ぎないように注意するべき」との考えを示している。これらの「自分の劣等機能に向き合うべき」という思想の背景には「影の統合」を目指すべきとする思想があるが、これは「片方のペアが不得手とする機能を、もう片方のペアが得意とする機能で支え合うのが理想的だ」と考えるオーシュラの思想とは大きく異なっている。
- ^ 「ソシオニクスの論理タイプは客観的であり、倫理タイプは主観的である」とざっくり捉えるのは誤りだとする主張もあるため、この部分の解釈には注意が必要。関連記事「二分法の論理(T)と倫理(F)の正しい理解について by Trehov and Tsypin」
- ^ 名前の二重化:単に「論理タイプ」というのではなく、「論理的で直観的なタイプ」とか「論理的で感覚的なタイプ」というようにすること。
- ^ ユングの主要機能(表記揺れ:主機能、優勢機能・優等機能・優越機能)と補助機能のこと。
- ^ 注意:ややこしいが、ここ以外の箇所で登場する「分裂性 - 循環性」という用語は、ユング・ソシオニクスの外向性 - 内向性ではなく、ユング・ソシオニクスの非合理性 - 合理性を意味するので注意。
- ^ このあたりはユングのタイプの生じ方(優勢機能と劣等機能のペアの生じ方)の考え方と同じ。例えば外向的思考という態度を発展させた人間は、内向的感情という態度を抑圧している。ちなみにフォン・フランツは、都会で暮らす人、文明社会で暮らす人は、農村や未開社会で暮らす人と比べて、この優勢機能と劣勢機能の偏り(分化)が大きくなり、専門化がすすむと考察している。脱線すると西洋では偏りが明確に見られる傾向があるが、日本などの東洋ではこの偏りが不明瞭な傾向があると、河合隼雄などによって指摘されている(そのため西洋人と比較して、日本を含む東洋人にはタイプが不明瞭な人が多いと考えられる。
- ^ 魅力:ここでは異性を惹きつける魅力(特に身体的な魅力)をさす。日本語で「魅力を感じる」といった場合、身体的魅力だけではなく、精神的資質への好感や、愛の感情など無数の要素を含めた話になるが、この出典では、「魅力」と「感情」をはっきり別物として扱っているので注意。「魅力(特に身体的魅力、恋人を自分の物にしたいという「欲望」)」は感覚機能で取り扱う情報、「愛の感情」は感情機能で取り扱う情報だとしている。
- ^ オーシュラは循環性(=非合理性)/分裂性(=合理性)は生まれつきのもので、外向/内向、論理/倫理、直観/感覚は最も身近な養育者の影響を受けて5歳未満までの間に形成されるという説を唱えている。(関連記事「合理と非合理(by A. Augusta)」)