SEE-ILI
SEEは自分の感情を隠さないだけではなく、むしろそれに誇りを感じています。自分の内面的な感情に合致している場合は、比較的簡単に賞賛の感情を表現します。それは言葉としてもそうですし、表情としてでもそうです。SEEは常に完全な愛を求めており、必要であれば肉体的同一化にも、精神的同一化にも賛同します。たとえ感情が一時的なものに過ぎなかったとしてもです。このタイプの人は、愛の対象に自分が何を望んでいるのかをよく把握していて、自分が合わせるよりも、自分が指示したがります。
他の全ての感覚タイプと同様に、SEEは環境が美しいかどうか、清潔かどうか、整然としているかどうかに多くの注意を払っています。しばしば天性のセンスを持っており、ファッションセンスにも優れていて、周囲の人々にもそうであることを求めます。パートナーの身体的な特徴にも注意を向けています。
SEEはあらゆる活動において非常に積極的に行動しますが、自分の行動を評価する基準を持っているわけではありません。自分ができることを全てやったかどうかという点には、いつも自信が持てません。
SEEの人生は、親しい人から「もっと考えて、賢い行動をとるように」と要求されると、複雑になります(SEEが男性で、パートナーが女性の場合、特にこうして要求される可能性が増します。これは彼らが女性の行動の論理にあまり興味がないせいです)。このような要求をされると、SEEは激怒し、論理をかなぐり捨ててしまいます。SEEは、そうやって要求されない限り、つまり彼がパートナーから「敬意を持って扱われていて」「配慮されている」限り、知的かつ論理的に行動します。SEEの論理に反論することは許されません。パートナーがSEEに影響を与えることができるのは、SEEの目標に対して、より崇高で、より達成困難な別の目標を対抗させることだけです。
SEEは、自分から進んで、猛烈に活動します。そのため、ほとんど全ての活動の兆候を片っ端から批判するILIの絶え間ない、ありとあらゆる口煩ささえも、SEEの気分を消沈させることはありません。それどころかそうやって批判されると、「自分は注目されるだけの活動が十分にできている」と実感して、安心感を得るのがSEEというタイプです。彼らは自分の活動に対する自己批判力が欠けています。それは、自分を過大評価しているからではなく、過小評価しているからです。他人から見ると、SEEは注目の的になりたがっている人に見えるかもしれませんが、彼らが求めているのは、自分自身の手で、自分を取り囲む「混沌」をある種の秩序へと導き、支配しているという実感だけです。
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SEEは、強い自発性を持ち、厳しい要求をするという性質のせいで、自分の感情の対象に失望することがよくあります。SEEは自分の精神や魂の呼びかけに共鳴してくれる人を求めていますが、現実にはそんな彼らの望みを満たしてくれる人はなかなかいません。SEEは本質的に、自分は相手に適応する必要がなく、なおかつ相手のほうが自分に適応してくれる人を必要としています。とにかく、そんな人が彼らSEEにとって理想の人なのです。
ルタというSEEの学生が、自分の理想の騎士について次のように語ったことは印象深いです(この人物像は、ヘルマン・ヘッセの小説「荒野の狼」に登場する主人公を連想させます):「どこか悲しげな、大きな目をした、寡黙でお世辞を言わない人。そのせいで、手が届かない人のように見えます。私から見て、彼は注意を払う価値など無い何十もの問題に悩まされています。私はそんな彼の悲しさ、真剣さに惹かれ、彼を元気づけ、気分を高め、幸せにしようとします。もしもそんな男性がパーティにいたら、私は退屈せずにすむでしょう。きっと私は元気で明るくなり、例え彼が笑わなかったとしても、少なくとも彼を笑わせようとするはずです」
このSEEの理想の騎士像は、感情が非常に安定しており、冒険を好まず、要求の多い恋人に完全に依存することを望むILIを比喩的に表現したものです。ILIは、自分が本当にパートナーから注目されているかどうかを、時間をかけて判断します。ILIのそうした性質は、エネルギッシュで、諦めることを知らず、自分自身の不安定さにうんざりしているSEEからすると、真面目で手が届かなさそうな人であり、なおかつ自分にとって非常に必要な存在に見えます。
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ILIの主要な特徴は、ほとんど全ての内向性の人間と同じく、滅多に自発性を見せないという点ですが、それだけではなく彼らは自発性を発揮する他者を馬鹿にしがちという特徴も持ち合わせています。「活動的な人は皆、ステージに上って注目の的になりたがっていて、自分の愚かさのせいで苦労してばかりいそうな人間だ」と考えています。ILIのこうした面を見て、それを「冷静さ、客観的で独立した判断力、不快な事であっても指摘できる勇気」だと受け取る人もいます。
ILIはいつでもどこでも、ほんの少しケチをつけてしまうせいで、人を敵に回しがちです。おもしろいことにエーリッヒ・フロムはILIに属するような人間をさして、次のように描写しています(ちなみにフロムはこのようなタイプの人間のことをネクロフィリア、つまり死を愛する人だとさえ呼んでいました):「この種の人間は、顔の表情で識別できます。普通、まるで悪臭を嗅いでいるかのような表情を浮かべていることが多いです。まるで触れたもの全てを鈍らせ、消滅させるかのような脅威の力を持っています。こういう人が現れると、活気は消え、会話が途絶えます。コミュニケーションは退屈です。彼らは生き物ではないもの、痛み、死、機械的なものに惹かれます」
エーリッヒ・フロム自身はILEであるため、ILIとは正反対です。ILEとILIには共通の視点がありません。直観的内向タイプの人間が、楽観的な哲学の説教者である直観的外向タイプの人について意見を述べたとしたら、おそらくこのフロムの発言に負けず劣らず鮮やかな辛辣さで語られることでしょう(情報代謝タイプが正反対な者同士が互いに好意を抱くようなことがあったとしても、相手の活動の動機を理解できないため、不信感が生まれがちです)。一体だれが精神的補完のためにILIを求めるでしょうか。ルタという学生の話に登場した理想の騎士を思い返してみてください。彼は精神的な平穏と、特別な知性の深さを特徴とします。
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ILIの興味深い特徴の一つは、その譲歩性です。ILIは「強く、自分の道を知り、譲歩を要求する人々」「目標を考える必要性からILIを解放し、ILIが生み出した行動方法を活用してくれる人々」がとても好きです。とはいえILIが譲歩するのは、そうした方がより賢明で、必要性があり、他に方法がないと考えた場合に限ります。言い換えると、彼らは自分が行動せざるを得ず、他に道はなく、逃げることはできない、と心から納得した時にのみ、進んで行動します。
性的な関係では、ILIは、他のどの活動よりもさらに受動的になることがあります。それ以外のことが「不可能」な場合、彼は「譲歩」します。他に選択肢がなく、状況的に避けられない場合に限り、結婚することが適切だと考えます。
ILIは悲観的な哲学をする傾向があります。彼らは人間嫌いだとよく言われます。まるで悪しか見えておらず、自分自身のことも邪悪で悪辣な生き物だと感じている人に見えるかもしれませんが、実際のところ、これは間違いです。ILIはただ何かを見落とすことを常に恐れて生きています。もしも何らかの脅威的なトラブルについて、事前に警告できなかったとしたら(彼らはあまり運に期待していません)、まるで自分自身が余分な人間のように感じられてしまうことでしょう。
人々が熱意を持って何かを行うと、ほとんどの場合、起こりうる失敗が忘れ去られます。良いムードを見ると、ILIは人々に「この程度、どんなバカでもできることだ。これからどんな問題が起こるかはまだわからない」ということを思い出させ、気分をそぎます。
しかし不運にさいなまれ、全てが手に負えなくなり、運命が牙をむいたかのように見える時には、このタイプの人の存在は比類のない安心へと繋がります。重要なのは、ILIはあらゆる外向的な感情を恐れており、問題の本質を見る妨げになるような感情の全て ─ 楽しい気分も、あらゆる絶望や悲劇も含めた全てに苛立つという点です。彼らはそんな感情を消し去ります。彼ら自身も感情のままに行動することはできず、感受性を発揮することを拒み、そういったことをする人のことを、まるで現実へと連れ戻す必要がある自己中心的な子供のように感じることもあります。
SEEは、まさにこのILIのような人を必要としています。SEEにとって、運命のいたずらについて事前に考えてくれて、あらゆる打撃や予期せぬ出来事から身を守るための警告をくれる、そして大惨事が起こる前に悪を相対化する方法を見つけてくれる愛する人がいることは、素晴らしいことです。
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ILIの辛辣な発言は、自分の仕事の質に満足している人々の気分を害するものでは全くないことを強調しなければなりません。そして、ほとんどの感覚タイプはこのような自信を持っています。「そうでなければありえない」とか「自分の鼻よりも高くジャンプすることなどできない」という批判は、外向的直観タイプの人々には非難に聞こえますが、非常にエネルギッシュなSEE相手の場合は、彼らを安心させるだけです。ILIは、たとえそれ以上のことが行われなかったとしても、それはSEEのせいではないと説得します。ある人には道徳的な安心を与える言葉が、別のある人には非難のように聞こえることと同じです。
ILIは他者の行動や振る舞いの個々の要素から、いわば動作モデルを構築します。そんな構築モデルを持った彼らを驚かせることは不可能です。ILIは自分から見て理解できるだけの一貫性がない行動をとる人には不満を抱きがちです。そんな人の動作モデルを構築することは不可能だからです。
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出典の全文訳:人間の双対性(by A. Augusta)