外向性 - 内向性
外向性と内向性の違いは、精神的特性だけではなく、外見にも表れます。
外向性の人は、大脳半球の右側が常に活動的です。これは顔や目に表れます。外向性の人は顔の左半分と左目が発達しています [1]。
そして一方で、内向性の人は左脳、顔の右半分、右目が発達しています。
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私たちは通常、人と話す際、活動的な側の目に注意を向けます。つまり、人の顔全体を見るのではなく、活動的な目に注意を向けています。
活動的な側の顔は細長く、目はより大きく、より理性的に見えることが多いです。しかし目に着目したタイプ診断では、特に分裂性(合理)かつ外向性の人 [2]の活動的な側の目がどちらかを間違えることが多いです。なぜならExxjタイプは通常、静止物、例えば写真撮影時(つまり動かないカメラのレンズをじっと見ている時)や、対話者を見る時、受動的な静的な側の目、つまり右目を見開く傾向があるためです [3]。
一般論を言えば、やはりこうした外見的な違いはあくまでも「傾向」として見るべきです。傾向であるため、ここでこうした特徴があると説明した特徴とは真逆の特徴が見られることも当然考えられます。
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外向性の人の表情は、内向性の人と比べるとあまり制約なく、自由に動きます。
内向性の人の顔には、特別な静けさが見られることが多いです。まるで第三の目で世界を見ているようにも見えます。
興味深いことに、最も温かみを感じさせられるような顔と、最も冷たさを感じさせられるような顔を見せるのは、内向性の人です。
感覚・倫理・内向タイプ(SEI)と、直観・倫理・内向タイプ(IEI)は最も温かみを感じさせられる顔つきをしたタイプです。
そして倫理・感覚・内向タイプ(ESI)と倫理・直観・内向タイプ(EII)が最も冷たさを感じさせられる顔つきをしています。
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外向性の人の主要な精神的資質(または、いくつかある主要な精神的資質のひとつ)は一体何なのでしょうか。それは、客体に従属する形で外界を変えようとする傾向です。
外向性の人は、主体や客体それ自体の好意や利益のために、主体・客体間の関係性を変化させます。
一方で、内向性の人は、主体・客体の間の関係性を良い状態にするために、主体や客体それ自体のほうを変化させようとします。
外向性の人にとって、人間関係そのものは二の次です。人間関係は、人が必要とするものでなければなりません。
反対に、内向性の人にとって、適合させるべきは人間関係それ自体のほうです。もしもその関係性に適さない状態の人・行動が存在する場合は、関係性に適した形へと人・行動を変化させるべきだと内向性の人は捉えます。
外向性の人にとって、外界において主体と客体それ自体は不変性のあるもの(変えることができないもの)です。
反対に、内向性の人にとっての不変なものは、主体や客体間の関係性、そしてそこから引き起こされる感情(чувства) [4]です。
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人間は社会的な存在です。そしてそれは、いわば二つの部分、すなわち能動的な精神物理学的な「私」(人は客体である)という部分と、人やその他の物体との関係性(人は人間関係である)という部分から構成されます。
意識の外向性-内向性は、この二つの部分のうち、どちら側を優先するかという性質なのです。そしてこの優先度の違いから、様々な外向性と内向性の特徴の違いが生じているのです。外向性の人は、前者の精神物理学的な「私」を優先し、内向性の人は、後者の関係性を優先します。
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外向性の人は、「質の高い客体」には、必ず質の高い関係性が付随すると考えます。
つまり、ある人と、その周囲の関係性や、そこで生じる感情(чувства)は、その人の個人的な特性や活動の価値(=質の高い客体)に依存して左右されるものであるという考えのもとで、外向性の人は様々な方法で「その人の個人的な特性や活動」の質を向上させようとします。
それに対して、内向性の人はむしろ他者との関係性によって、言い換えれば他者にどのような感情(чувства)を呼び起こすかによって、その人の人格が評価されると確信しています。
内向性の人は、その人間関係が価値あるものであればあるほど、自分自身にも価値があると認識するため、意識的な努力の限りを尽くして人間関係を改善したり、親身になろうとしたり、喧嘩を避けようとします。
内向性の人は、まず自分の心理的な領域(全ての関係性や感情(чувства)の合計)の質を気にするだけではなく、他者の心理的な領域の質も気にします。
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外向性の人にとっての社会的関係性とは、その関係を結んだ対象が持つ社会的価値と質の結果や兆候を意味ます。外向性の人の一般的な思考の流れ方:「それぞれの主体は、自己改善によって他者との関係性をより良好にし、自分自身に対する前向きな感情(чувства)を呼び起こすことができる」。
もしもある主体の社会的地位が控え目なものでである場合、外向性の人にとってそれは「その主体には、社会的に評価される資質が欠けている」ことを意味します [5]。
内向性の人にとって、人間関係は物質的な世界の基盤です。ある人間関係を結んだ対象としての人間の質は、社会的な質、人間関係の価値、他の人々に呼び起こす感情(чувства)の結果や兆候だと考えます [6]。
内向性の人の一般的な思考の流れ方:「誰であっても、他者との関係性を改善することで、社会から見た自分の価値を高めることができる」。もしもある対象が注目されず、評価もされないとしたら、それはその人が十分に正しい関係性を構築できていないことを意味します。
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これらの議論を考えると、現代の一般的な定義である「人間とは、まず第一に、人と人との関係性のことである」という考えは、外向性の人の立場から見れば進歩的な考え方であるのと同時に、社会とは人それぞれの単なる集合ではなく、人と人の間の関係性も含まれるということを思い出させるものでもあります。
一方で、内向性の人の立場から見れば、この定義は関係性の役割を過度に強調し、物事を過小評価する危険性があるものであり、個々に存在する「人」そのものが見えなくなってしまうかもしれません。
そうした過小評価が行き過ぎた内向性の人は、その結果「替えの利かない人間などいない」「人はただの部品のひとつにすぎない」という考えに陥ってしまい、場の心理的な調和を乱している人を見ると、「その人なりに適応しようと努力しているけどどうしても出来ない」だとか「そもそもその人にとって適応する必要性が無いからそうしていないだけ」という場合であっても関係なく、「その人を変えなければならない」という思いに囚われたりします。
こうした内向性の人に対して、外向性の人は「かけがえのない関係性など存在しない」「個人や個性にあわない関係性などさっさと切り捨ててしまって、もっと別の関係性に乗り換えてしまえばいい」という考えに陥りやすいです。
個人としての人には、「自分には『自分』でいる権利があり、それが尊重されるのは当たり前のことだ」という確信と、「周囲との望ましい関係性がこれから先も安定したまま末永く続いていく」という確信の両方が必要なのです。
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外向性の人にとって、外界で志向する対象は、周囲の客体や主体です。したがって、外向性の人にとって客体や主体というものは、一種の不可侵の権利を享受しています。つまり、客体には、その客体が望むような形で存在する権利があります。
もしも、ある外向性の人の邪魔をする客体がある場合、その外向性の人は、自分の邪魔をする客体と自分の関係性を変えようとしますが、自分の邪魔をする客体そのものを変化させようとはしません。
というのも、外向性の人は、客体と主体それ自体が意識の支点であり。意識の支点を恣意的に変えるということは、その支点を失うことを意味します。そんなことをしてしまうと、世界は崩壊し、意識の崩壊の危機を招きます。外向性の人にとって「客体を変化させる」という行為は、自分が座っている枝をノコギリで切り落とすような行為です。
このため、外向性の人は皆、様々な形の「再教育」、つまり本人の意思に反した客体の変化に激しい反応を見せます。
全ての外向性の人は、誰もが自己向上のために努力しているという確信を既に持っています。そして全ての外向性の人は、この自発的な自己向上において他の全ての人を助ける義務があると感じています。
内向性の人が外界で志向する対象は、他者との関係や感情(чувства)です。したがって内向性の人はそれらに非常に注意を払います。それと同時に、内向性の人は誰もがこの同じ目標に向かって努力しているという確信を持っています。そのため自分の力が及ぶ限り、他者の関係性構築を手助けしようとします。
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外向性の人には、ある種の落ち着きのなさや活動性が見られます。内向性の人であればただ観察しているだけという状況であっても、外向性の人には、彼ら自身を行動に駆り立てるような何かを持っています。
内向性の人が何かを観察する場合、まるで自分自身に没頭しているような印象を与えることがありますが、ここで重要なことは、内向性の人の集中は自分に向かっているどころか、むしろ外界の関係性に向かっているという点です。
つまり外向性の人とは対照的に、内向性の人は主体と他の客体の関係性を観察しているのです。
内向性の人が「没頭」して何かを考えているとすれば、それは自分の内面の問題を考えているのではなく、他の主体・客体間の関係性を考えているといえます。
内向性の人が与える「自分自身に没頭している」ような印象は、実際には「外界とのあらゆる関係性を、自分自身の感覚として認識している」ことから生じているのです。
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こうした理由から、外向性の人と内向性の人が協力した場合、外向性の人は内向性の人に対して「ある特質をもった客体としての自分」という確かな感覚を与えることができます。
そして、内向性の人は外向性の人に対して、「他者がその人にどのような感情(чувства)を抱いているのか」であったり、必要であれば「その感情(чувства)をどのように変化させることができるのか」についての真の知識を提供できます。
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すでに説明した通り、外向性の人は、現実の主体、客体、およびそれらの様々な表れや、それらの中で起こっていること、あるいはそれらと共に起こっていることに適応し、これらの主体や客体に受け入れられる関係を作り出します。
こうして外向性の人は、論理的なものと非論理的なもの、理的なものと非倫理的なもの、美的なものと非美的なもの、時宜を得たものと時宜を得ないものについての新しい関係性や新しい感情(чувства)を創造します [7]。
そして、内向性の人の創造性のおかげで、新しい性質を持つ主題、物体、構造や、新しいタイプの感情的経験(эмоциональных переживаний)と内的興奮、質的に新しい仕事の方法が生まれます。
創造的な要素は情報代謝の第二の要素です。例えばILEの場合はTi、LIIの場合はNeです。
質的に新しいデザインは、内向性の人の頭の中のみに生まれます。ソビエト連邦の航空機設計者の中で真に先進的だったといえるのはロベルト・バルティーニです。彼はLIIでした。
一方で質的に新しい社会的関係を創造できるのは、外向性の人だけです。例えば古典的なマルクス主義者の全ては外向タイプでした。ただし、新しいタイプの状態 (客体) の創造者は、トマス・モア(LII)のような内向タイプだけです。
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一方で、すでに入手可能なサンプルに従って何かを再現する必要がある場合、つまり、すでに発明されたものであるか、どこかにあったものを再現する必要がある場合は、全てが正反対になります。
内向性の人が質的に新しい製品の発明者であるのに対して、外向性の人だけが、既存の見本に従ってその製品の生産を組織化するのです。ここでは情報代謝の最初の要素、主導的な要素が現れます。
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何らかの製品を生産する企業とは、言い換えれば製品の生産者にあたります。そして、そこで働く人々のシステム(チーム、集団、集合体)でもあります。リーダーのタイプによって、この二つの側面との関係が決定されます。
外向的なタイプのリーダーである場合、主要目的に「生産性の拡大、発展、生産性の増大」を据えます。そして集団と、そこから生まれる利益は、この目標に従属すべきだと定めます。こうした態度は、産業の急速な発展が求められる状況や、内部保留を高めようとする状況においては効果的です。
一方、内向的なタイプのリーダーである場合、主要目的に「集団内の関係性の向上」や「集団と経営陣の間の関係性の向上」を据えます。このアプローチの下では、「生産性は拡大すればするほどいいことだ、発展すればするほどいいことだ」というような計画は採用されないことがほとんどです(「今よりも生産性を挙げよう」が受け入れられるのは、そうしなければならない事情がある場合だけに限られます)。
したがって、内向的なタイプのリーダーが好むアプローチ法は、集団の安定化や、各メンバーの地位の安定性の確保という問題が全面的に出てくるような、画一的な労働条件が強いられている産業では効果的です。また、こうしたアプローチは社会生活の安定化にも貢献するといえます。
ただし、ここで忘れてはならないのは、各情報代謝タイプは、それぞれ異なる方法で現れるということです。今ここで説明した内容は、あくまで外向性と内向性の一般的な傾向を紹介しているだけです。
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外向性の人はアクティブな生活を好みます。イニシアチブを発揮して、いつも多かれ少なかれ「舞台に上ろうとする人たち」だといえます。
しかし彼らが舞台に上がろうとする理由は、「自分を多くの人に見てもらいたい」というよりも、「自分自身が、より多くの客体(より多くの人)を見て、評価したい」からです。外向性の人は、他者を評価し、指名することを楽しみます。
内向性の人は、あまり前に、特に他人の前に出たがりません。他人の存在に気付きさえしません。内向性の人が他者を評価する基準は、「他者が全体的な心理状態にどのような注意を払うか。その妨げになるか否か、改善しようとするか否か」だけです。
そして内向性の人自身は、正直なところ自分には指導者・リーダー的な仕事は向いていないと主張します。しかし、そうした仕事をするよう指名されたら、断ることも出来ません(自分には断る権利などないと感じます)。
一度あるポストにつくと、何年もそのポストにとどまり続けることが多いです。「このポストに自分がいないと回らない」と感じる場合も多いです。
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外向性の人は、自分から去ることがありますし、組織から見て不適切な行動をしたという理由で解任されることもあります。
内向性の人はこうしたミスを犯しません。なぜなら組織から見た不適切性と、内向性の人自身が考える不適切性の理解は常に一致していて、齟齬が生じないからです。
内向性の人は、人間関係を壊したり、他者の感情(чувства)を苛立たせたりしないよう心を砕いています。彼らは受動的で、優柔不断ですが、彼らに「なぜそうであるのか」を聞けば、何かしらの客観的要因を原因とした回答が必ず返ってくることでしょう。
内向性の人からすると、自分よりも積極的な人は全員、自己顕示欲が強い人に見えます。
実のところ、内向性の人は、より多くの活動を目指して努力してはいます。しかしながら、本当にその活動をしなければまずいような事態に追い込まれるまで、率先して行動することが出来ません。
なぜ内向性の人の腰が重いのかというと、それは、彼らが不適切な活動を恐れているからです。
こうした「不適切な活動」を「厚かましさ」とか「愚かさ」という言葉で呼ぶかどうかは、人それぞれの情報代謝タイプ次第で変わります。
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外向性の人は、どうにかして必要不可欠な存在になりたいと願っており、そのために自分の質を高めて、より社会的に有益で、それこそ自分がいなければ社会が回らないような存在になろうとします(彼らがこうした願いを抱くのは、彼らが常に他社から向けられる好感という気持ちに疑いを向けているからです)。
そして、他者から好感を引き出すために、「自分がイニシアチブを発揮する」という手段をとります。
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内向性の人は、義務と責任を果たす必要性に迫られてのみ行動します。例えば誰かに迷惑をかけないようにするためであったり、他の人との関係を悪くしないようにするためです。
とにかく、どんなことがあっても、皆の前に残り続けるために行動します。彼らにとって、「皆の前に居られなくなる」ということは「自分の積極的な活動が不要とされ、自分の責務は制限され、仕事の中心から取り残されること」を意味しています。
時折「内向性の人は放っておかれるためだけに行動する」と言われることがありますが、これは単に「そう見える」というだけの話であり、実際のところ、彼らはそんなこと(他者から放っておかれること)を望んでいません。
内向性の人が、なぜその仕事に自分が対処できないことが分かっている場合であっても、リーダーシップを発揮するポジションから離れようとしないのかというと、「一度仕事から外れてしまったら、もう二度と誰からも必要とされなくなってしまうのではないか」という不安があるからです。
そしてこれが、どんな手段を使っても「権力」にしがみつこうとする自己中心性と不健全な独占的傾向に繋がります。たとえ健全性が損なわれるとしても、「皆の前に居られなくなる」ことへの恐れが、理性を上回るのです。
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外向性の人は、義務や責務を好まない傾向がありますが、その代わりに、自分の行動や結果に対して責任を取ることを好みます。
彼らは周りで起こる全てに対して、自分がその責任者になろうとします。それが彼らを活気づけ、行動に駆り立てます。
彼らは仕事、人、その他すべてに対して責任を負います。外向性の人は、責任を特権として理解します。しかし彼らにとって、義務や責任に関する概念は暴力と結びついています。
反対に、内向性の人は「責任者になりたがる」かわりに、「果たすべき責務を果たす」ことを好みます。
内向性の人は、自分に課せられていると感じた義務や責務を次々に果たして清算したいと感じる傾向が強く、そのために活発に動くことになります。そして「責任ある立場」を何とかして回避しようと画策します。
内向性の人にとっては、責任という言葉自体がほとんど「自分に課せられた刑罰」のように聞こえます。
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内向性の人が過度な活動を避けるのと同じくらい、外向性の人は過度な感情(чувства)を見せることを避けます。つまり、様々な客体や主体に対する自分の態度を表に出したがりません。
外向性の人は感情面(чувства)では控え目で、この点では他人に迷惑をかけることを恐れています。その一方で、内向性の人は、自分の活動が他人に迷惑をかけるのを恐れています。彼らはこれをマナー違反の無礼な行為だと考えています。
心にゆとりを持つためには、外向性の人は人間関係に焦点を当てた内向性の人たち、具体的には、他人の感情(чувства)を理解し尊重できる人たち(=内向性の人たち)に囲まれる必要があります。
そして内向性の人が心理的な心地よさを感じるためには、自分や他者の活動に気づき、評価できる外向性の人たちに囲まれる必要があります。
外向性の人は、グループの中で他者に注目し、活気づけようとします。そしてそれが喜ばれると満足します。自分が注目を向けるべき誰かがいないと退屈に感じます。
逆に、内向性の人は自分自身に注目を集めます。誰にも注目してもらえないと退屈してしまいます。
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内向性の人たちは一般的に、隠遁的な生活を好む傾向があります。しかしながら、こうした隠遁生活は、決して彼らが望んでいる生活ではありません。
内向性の人が隠遁的な生活を選ぶのは、彼自身が自分のことを「不要な存在」「余計な存在」だと感じ、彼らが望む注意を、他の誰からも払ってもらえない場合に限られます。
内向タイプには8種類のタイプあります。間違いなく、それぞれが自分たちの個性の異なる側面に注意を払う必要があります。
たとえば、あるタイプは自分の仕事に注意を払う必要があります [8]。他のタイプは、それが自分の感情(эмоциям)かもしれませんし、能力かもしれませんし、意志かもしれません。他の人が彼らの必要とすることに注意し、それについて話すとき、彼は安心し、満足します。
外向性の人は、他者に注意を向ける傾向がありますが、それと同時に彼ら自身の感情(чувства)にも注意を向ける必要があります。彼らが抱く、他の人たちへの気配り、愛、正しく評価しようとする気持ち、利他的でありたいという願い、こうしたものが、他でもない彼自身が自発的に感じた感情(чувства)であるという確かな実感が必要です。
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簡単に言うと、外向タイプの内向タイプの違いは次のように定義できます。
外向タイプは世界に対して建設的で、能動的であり、目標達成の強い欲求を持っています。一方、内向タイプは、たとえ非常に活動的な場合であっても、トラブルや失敗を避ける傾向があります。
外向タイプは、「やるべきことが何かしら残り続けていること」に不満を感じます。
内向タイプは「やらなくてもいいことを、やってしまったこと」に気付いた時に不快になります。彼らは自分と他人の目に浮かぶことを避け、すでに築かれた人間関係を崩すことを恐れています。
必要のないことに時間を費やすのは、非難されるべきことであるという考えが、内向タイプの心の底には根差しています。
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典型的な受験生の例をあげると、外向的な受験生は、試験に無事合格した後、ほとんどの場合、勉強する時間がもっとほしかったと、ほんの少し不満を感じます。
一方、内向的な受験生は、試験に無関係な内容を勉強してしまったことに、少し不満を感じます。
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内向性の人の不器用さや怠惰を批判することで彼らをを奮い立たせることができます。
その一方で、内向性の人に「あれはやりすぎだった」とか「余計だった」というと、長く彼らの意欲を削いでしまうことになります。
外向性の人に、そんなこと(「あなたは十分なだけの活動をしていなかった」といった発言)を言うと、攻撃的になり、怒りだしたり、誤解されていると感じたりします。
その一方で「やりすぎだった」などの「活動の過剰さ」を指摘された場合、外向性の人は、むしろ一種の賞賛として受け取るかもしれません。
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外向性の人は、始める人であり、インスピレーションを与える人であり、主催者でもあります。
内向性の人は裏方の役割を果たし、他の人が始めた仕事を終える役目を担います。最初は熱意がなかったとしても、最終的にはその仕事を遂行します。
内向性の人は控えめで冷静で、自分の行動の意義や重要性をあまり信じておらず、自己批判的です。そして同時に、彼らはより自己中心的な傾向があります。
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出典の全文訳:人間の双対性(by A. Augusta)
訳注
- ^ 神経は左右交叉しているので、右脳と繋がっているのは左目、顔の左半分、左半身。
- ^ 外向合理タイプ(ESE, EIE, LIE, LSE)のこと。この4タイプはEj気質 (率直的・自己主張的な気質)であり、動的タイプでもある。
- ^ 外向タイプの活動的な顔は左側・左目だが、「右目を見開く」のは外向性/内向性ではなく、非合理/合理側の性質の影響。Exxjタイプは静止物を右目で見る。関連記事「合理と非合理(by A. Augusta)」
- ^ чувства(感情); чувстваは「周囲の世界との関係の中で生じる安定した感情体験」という意味である。感情と訳すことが出来る単語には他にэмоцииもあるが、こちらは「ある出来事や状況に対する一時的な体験」を意味する。例えば友達や恋人に感じる信頼の感情や、敵対者への憎しみの感情はчувстваであるが、何か嫌な出来事があって怒る、嬉しいことがあって笑うなどの一時的な感情体験の場合はэмоцииである。内向性が関係しているのはчувстваであってэмоцииのほうではないので注意(ソシオニクスではэмоцииは情報要素 Feに関係する)。
- ^ 「主体」というとわかりにくいが、言い換えると外向性の人とは「人というものは、自己改善によって、より良い人間関係を構築したり、他者から好意や尊敬の気持ちを向けてもらえるようになるだろう」「もしもある人物の社会的地位が低い場合、それはその人が社会的に評価されるだけの資質を持っていないのだろう」と考える人だ、という意味。
- ^ 外向性は、まず先に「自分や相手自身の社会的価値や質の良し悪し」があり、その結果として「人間関係の良し悪し」が生じていると考えるのに対して、内向性は、まず先に「人間関係の良し悪し」があり、その結果として「自分や相手自身の社会的価値や質の良し悪し」があると考える。外向性は「その人に価値がある」という条件を満たすことができれば、「良い人間関係が構築できる」状態に至れると考える。内向性は「良い人間関係が構築できている」という条件を満たすことができれば、「その人に価値がある」状態に至れると考えるのが内向性。
- ^ 関係性を作り出すのは、関係性に焦点を当てる内向タイプではないかと思うかもしれないが、これは誤記ではない。「外向性の人が新しい関係性や新しい感情を創造する」というのはモデルAに基づいた考えである。外向タイプは創造機能が内向性であるため、関係性を創造する。
- ^ つまり外向性の人が自然にやっている、様々な方法で「その人の個人的な特性や活動」の質を向上させようとすることを、内向性の人も行う必要があるという意味。