構造ソシオニクス学派のA. TrehovとP. Tsypinによる説明。
ソシオニクスの論理/倫理という二分法を理解する上でよくある誤りを検討します。 この二分法を今一度整理し直して、再定義をしたいと思います。
定義と混乱のレビュー
「どうして形容詞を使っているのですか。探偵なら動詞と名詞で自分を表現しなければなりません」と彼女は言いました。- [春の十七の瞬間] より [1]
「たぶん彼は賢いプロなんだろう」 「いや、賢いプロなら避難所には行かなかったはずだ」- [春の十七の瞬間] より
さまざまなソシオニクスの作者によるReinin-Augustinavichiuteの二分法の解釈は、ほとんど逆に見えるものさえあります。
また、ライト向けな書籍は多い一方で、教科書となるような著作物がないため、この二分法の解釈の仕方は人によって本当にバラバラです。現状、論理/倫理は共通理解に欠ける二分法だと言わざるを得ません。
したがって本稿の著者はソシオニクスの二分法の解釈を修正し、より明確な定義を与える必要があると考えています。
これは論理/倫理以外にも外向性/内向性、感覚/直観、合理性/非合理性も同様です。そこで私たちは、本稿の論理/倫理の二分法から始めて、このテーマに関する記事をいくつか連載することにしました。
よくある誤解
そもそも、いくつかのソシオニクスの文献において、論理と倫理の二分法はどのように説明されているのでしょうか。
この説明自体は間違ってはいませんが、「物質」「エネルギー」という用語の説明が不足しています。
この2つの用語と、ソシオニクスの理論の関係を適切に理解することが必要だと思われます。
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別の例:
論理的思考は、対象のパラメータとその性質の相関関係を評価することで構築されます。私たちの世界には、法律、規則、規範が存在しますが、これらが論理的思考の柱となります。
倫理的思考は全く異なる性質を持っています。冷徹な計算を避け、理性の重みで判断、つまり、何がより妥当か、何がより妥当でないかを判断します。倫理的なタイプは、評価をするときに、心のアドバイスに導かれるのです。ソシオニクスの『倫理』は主観性の権利を擁護するものです。
そのため、論理的思考は自らに証明を課しますが、倫理的思考はそれを課しません。[4, p.102-103]
この解釈には、いくつかの点で異論があります。
まず、論理的思考と同じように、倫理的思考も合理的判断であるとするならば、どうして倫理的思考が「異なる性質」であると言えるのでしょうか(Ji, Je)。
さらにいえば、「心理的・社会的発達の法則・規則・規範」を発見し、分析するのは誰なのでしょうか。このような学問の分野における疑問や問題は「人々のニーズや可能性」に直接関わっています。そして「人々のニーズや可能性」という切り口から見れば、これはむしろ倫理的思考の範疇に入る学問だと言えます。
最後に、「心のアドバイス」とは何でしょうか。ソシオニクスや、ソシオニクスの16種類のタイプ(正式名称では「情報代謝タイプ」と呼ばれるタイプ)は、人間の知性による情報の処理に関わるものです。その中で、「心」が一体何の関係があるのでしょうか。
倫理型は、論理型と同じように頭で考えるのであって、それを実現するための別の器官を持っているわけではありません。そして、知性以外の部分である心についていえば、知性による情報処理の型が論理型である人も、倫理型である人も、どちらも心で感じます。
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E. Rumyantsevの著作には次のような定義が書かれています。
論理とは、情報を処理し、客観的かつ公平に判断を下す、人の精神の思考機能を指します。
倫理とは、主観的な判断や評価の心理的機能であり、人々の内面、魂の世界との関わりに基づいています。 [6, p.186-1]。[6, p.186-188]
このように、「倫理」の「無視できない主観性」という前提は、まったく不明確で理解不能です。
もしこの前提が正しいと仮定した場合、人類の約半分が倫理型だとして、2人に1人はあらゆる事柄について不十分な思考をしている(つまり主観的に思考している)ということになってしまうからです。また、倫理型が客観的・科学的に重要なことを考えるようになったら、その人のタイプはどうなるのでしょうか。
繰り返しになりますが「倫理」は「論理」と同様に合理的な側面を持っており、主観性は論理/倫理によって生じるものではありません。
また、「人の心の内なる世界」とは何であり、どのような領域に存在しているものなのでしょうか。倫理型は、具体的にはどのようにしてこの世界に入り込むのでしょうか。「人の魂の千里眼」のような概念を持ち出すつもりなのでしょうか。
そういう概念を持ち出した場合、まともな説明になるとは到底思えません。
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「倫理型」の行動の主な動機は個人的なものであり、ビジネス上の利益ではありません。[5, p.180]
論理型は、人間関係よりも理性と原則が優先します。...彼らの決定と結論において、論理型は事実に頼ろうとしており、周囲の人々の資質を客観的かつ公平に評価しようとします。[5, p.181]
この定義では、倫理はある種の「愚かさ」を悪化させるものとして説明されています。
本当に倫理型はビジネス上の利益を尊重できず、現実を分析する際に事実に頼ることができず、いつも主観に囚われているのでしょうか。
現実には、倫理型も論理型と同様に「商売人」です。倫理型もビジネス上の利益を集中的に追求しますし、論理型よりも(日常的な意味で)愚か者だということはありません。両者の違いは、論理か倫理か、どちらの「指標」をメインで使うかという点です。
例えば、仕事を探したり、昇進を目指したりするとき、倫理型は自分のプロ意識よりも知人やコネに頼る傾向が強いです(プロ意識自体は高いかもしれませんが)。論理型は、倫理型の持つ「自分の知り合いやアシスタントの現実的・倫理的な可能性を、客観的に推し量ることができる能力」を羨ましく感じるかもしれません。
このように、人の判断の真っ当さや健全性は、論理/倫理の二分法のどちらかに属しているかには全く左右されないのです。
MegedとOvcharovの著書から引用したフレーズ [5] に戻ると、矛盾がはっきりします。
「周囲の人々の資質を評価する」とは純粋な倫理的プロセスです。こうした評価を下す際、恣意性と非客観性に陥りやすいのはむしろ論理型の人々です。一方、倫理型の人々は、無生物の物質的な対象物を扱うのは難しいと感じますが、「人間分析」において間違いを犯すことは、あまりありません。
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最後に、[8]からの引用です。
論理型は、因果関係が客観的に存在することを確信しています。
この場合の因果関係とは概念的なものであり、具体的な記述や主張として存在する場合と、存在しない場合の両方があります。
論理型は、常に知的な主張と無意味な主張とを区別することができます。
倫理型は、状況を変えたいと強く願った際、無意識のうちに単に事実を無視したり、事実からあらゆる種類の結論を導き出そうとします。
重要なのは、そうやって物事を定式化することに価値を感じる人、あるいはそのように物事を見て結論を設定したいという強い願望を持つ人だという点です。
これを読むと、いくつかの疑問が湧きます。
倫理型の人は、この世に因果関係が存在することを知らない、自覚していないのでしょうか。物理学や生物学の法則を認識しないのでしょうか。そんな人がいるなら、どこにいるのか教えてほしいくらいです。
さらに引用を見る限り、論理型の人は客観的な現実を認識する、普通の、分別のある、合理的な人ということになります。
それに対して倫理型の人は、何を考えるにしても、常に、全く主観的だということになります。
このような主張に同意することは到底できません。
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興味深いことにC.G.ユングは、客観性への傾向を、論理/倫理という二分法ではなく、もう一つの二分法である外向性/内向性と関連付けています。
内向型が外向型と異なるのは、自らを方向づける際、内向型は(外向型のように、主として客体や客観的事実を基準にするのではなく)、主観的要因を基準にするという点にあります。内向型の人の場合、客体を「知覚」してから「行動」するまでの間に主観的な観点が介入するため、それによってその「行動」が客観的な条件に合った性質を持つのを妨げられてしまうのです。[9, p.415]
もしある人が、良い意味でも悪い意味でも「客観的状況や、客観的に求められること」に直接応える形で考え、感じ、行動している場合、一言で言えばそのように生きている場合、その人は外向型だと言えます。[9, p. 371]
全体として外向性の態度である場合、その人の思考は「客体や客観的なデータ」に従う形で方向づけられることになります。[9, p.380]
外向的な態度における感情(Feeling)は、「客観的なデータ」に従って自らを方向づけます。すなわち客体(この場合「客観的なデータ」)が「感情(feeling)のあり方」を決める上で不可欠な要因になっています。ここでは感情(feeling)は客観的価値 [2] と一致します。[9, p.394]
無意識的な知覚機能である直観は、外向的な態度においては、もっぱら外界の客体に向けられています。[9, p.407]
内向的な思考は、主として主観的要因を基準にして自らを方向づけます。[9, p.422]
内向的な態度における直観は、無意識の諸要素と呼んでもいいような、内的客体に向けられています。[9, p.442]
一般的に、多くのソシオニクスの説明で「完全に客観的であることができるのは論理型だけで、倫理型はあらゆる問題において一生「主観的」であることが宿命づけられています」と言われていますが、私たちの考え方は全く異なっています。
まず第一に、客観性が高いかどうかは、ソシオニクスの要素ではなく、その人の精神的・文化的レベルに依存するものです。つまりタイプ固有の性質ではなく、人それぞれの個人的な性質であるということです。よく古典的なイメージ通りの(そして非常に「明確な」)論理型に出会いますが、彼らの判断はどんな事柄でも完全に主観的です。
このような、客観性の問題について倫理型を「欠陥のある人」として描写するのは、ソシオニクスの開発者であるオーシュラ・オーガスタの発見を台無しにするものです。ソシオニクス的な性質は、あらゆる二分法のどちらの極であっても客観的に見て社会から必要とされているものだからです。
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ソシオニクスの観点から言えば、「人間の客観性という現象」は、論理的客観性と倫理的客観性に分けることができます。これらの異なる形式の客観性の実現/遂行は、論理と倫理が扱う客体(またはターゲット)の違いと結びついています。
端的に言えば、論理型は、「物質的な客体」を評価し、その存在の法則を特徴付けるときに客観性を発揮しようとします。
一方、倫理型は「人間(および他の生物)の性質」を評価し、社会(および家族関係を含むそのすべての下位区分)における相互作用の法則を理解する際に、客観的であろうとする傾向があります。例えば、経済学の理論には多くの客観的な心理的理由が組み込まれており、マーケティングや人事管理の分野では、そのほとんどがこれらの法則に基づいています。
私たちの定義
この二分法の定義から「客観性」という言葉を完全に排除することが、より正しいアプローチといえるでしょう。
論理型は、「何を?」「どのように?」といった外的状況をより繊細に理解し、倫理型は、「何のために?」「なぜ?」といった内的状況を重視するというように、その定義を区別した方がいいと思われます。
[2]にはこう書かれています。
論理型の人々は外因的プロセスと外因的な関係で頭がいっぱいです。
そして倫理型の人々は、それに劣らず客観的なものである、内因的プロセスと内因的な関係で頭がいっぱいです。
前者は外因的プロセスを研究し、彼らの外的状況を説明しようとします。
後者は内因的プロセスを研究し、彼らの内的状況、すなわち彼らの傾向、ニーズ、および魅力的な力を説明しようとします。
我々が提案する定義:
論理とは、現象の物質的(不活性的、無生物的)な側面から推論やデータ分析に訴える傾向のことを意味します。
倫理とは、現象のエネルギー(活性的、生物的)な側面から推論やデータ分析に訴える傾向を意味します。
いくつか例を挙げてみましょう。
論理型は、あるものを使う際、その有効性や機能性を第一に考えます。車は動くこと、故障しないこと、コンピュータは動くこと、つまり機能を果たすこと、などです。論理型は、流行遅れになったからといって、それを売ったり交換したりはしません。
しかし、倫理型にとって物の格式や現代性は、それ自体が意味のあるものです。倫理型にとって流行を抑えているかどうかは、倫理型が通常敏感である「社会的期待(ルール、規範)を認識しているかどうかを示すもの」としての意味を持ちます。
論理型にとって、人は「行動によって定義されるもの」であり、彼らはその行動の背後にある動機には立ち入りません。
しかし、倫理型にとって「行動の背後にある動機」は非常に重要であり、実際の行動に動機がどの程度影響しているかとは関係無く、それ自体が重要であることが非常に多いです。このために倫理型は、たとえその行為が自分に直接関係ないものであっても、なぜその行為をしたのか理由を知りたがるのです。これが、倫理型が心理学の分野に自然と興味関心を持ちやすい理由の一つです。
倫理は、人や集団の行動の動機を包括的に分析することができます。このような形式の判断は、司法や法律の仕事にとって「かけがえのないもの」です。
倫理型は、全体として論理型よりも内省的な傾向が強いという指摘があります。また、倫理型は精神的に他人の立場に立って、その内的動機を理解しようとする傾向が強いです。
◆◆◆
論理的判断は一般的に、物質的(目に見える)側面を含むので、より明白なものに見えるのに対し、倫理的判断はその発言を検証するのに時間が必要となります。
例えば、ある人物の職業人としての可能性を評価する場合を想定してください。倫理型がこういった課題を評価をした場合、下した倫理的評価が実際に正しいかどうかを明らかにできるのは「時間」だけです。こうした「遅れ」は倫理的評価の価値を低下させるものではありません。
しかし残念ながら、現代においては「わかりやすい」論理的分析のみが持て囃されることも往々にしてあります。倫理的評価の過小評価は、間違いなく社会を貧弱するものです。
考えられる混乱のポイント
この定義からすると、論理型は物質生産、技術、設備、厳密科学などの領域で自然に自信を持つことができるということになります。「個人的な動機」という概念がない無生物の世界、物質・物体の世界の法則や規則性を、創造的に考察することも少なくありません。
論理型では、便宜性と有効性が優先されます。そして彼らからすれば、この「聖なる牛 [3]」のために人間関係が傷つくこともあります。論理型は、物質と非人間的な技術の人です。つまり「機械的なものが大好きで、人間関係は二の次」というような原則で生きています。
人間関係全般にそこまで興味を持たない論理型に対して、倫理型は「他の人が自分にことをどう思うか、自分の行動をどう評価するか」を第一に気にします。
◆◆◆
ソシオニクスにおける論理と、日常的な意味での「論理」という言葉を区別する必要があるでしょう。後者の「論理」という概念は、ソシオニクス的に言えば「Si + Te + Fi」と言うべきものです [7]。
日常的な意味での「論理」という言葉には、次のような意味があります。
- 日常的な意味での「論理」を持つ人というのは、自分の面倒を自分で見ることができる人、すなわち食事の用意の仕方、洗濯の仕方、衣類の選び方などの日常生活に必要な見識を持っている人です。これはSiの影響範囲にあります。
- 日常的な意味での「論理」を持つ人は、財務的な判断力と見識を持っています。また、テクノロジーに精通し、ある種の「客観的」なリズム(例えば、午前9時から午後6時まで)で働く方法を知っており、自分の活動と他の人々の活動を調整する能力があり、ダイナミックで動きの速い人でもあります。これは全てTeの影響範囲にあります。
- 最後に、本当の意味で日常的な意味で「論理」的な人は、周囲の人々と適切に交流し、対人関係や集団的な状況において有能さを発揮します。社交的で友好的で、合理的な妥協をしたり、自分の絶対に譲れない価値観や原則を守ることができます。
したがって、日常的な意味で「論理的」な人は、必ずしもソシオニクスの意味での論理型ではありません。多くの場合、こういった人のタイプは、(Si:Fe)、(Fi:Se)、(Te:Si)、または(Ne:Fi)です [4]。
◆◆◆
ソシオニクスにおける「倫理」と、一般的な意味での「倫理的行動」や「倫理的な話」という概念とはほとんど共通点がありません。
実際には、ソシオニクスの倫理型は、「必ずしも一般的な倫理的行動規範を守る必要はない」と考えており、その結果、周囲から「非倫理的」だと思われることもあります。
これは、(ソシオニクスの意味で)強い倫理を持っている人は、社会的・倫理的な行動基準に、より大きな自由度を持って関わっているからです。このタイプの人々は、社会的相互作用のための「新しい規則」「新しい秩序」「新しいアプローチ」を発明することができます。これは他の人からすると「エチケットを守らず、倫理の規範を乱す失礼な人」に見えるような行為です。
それどころか、典型的なソシオニクスの論理型は、明文化されていない人間同士の相互作用の規則を厳守しようと努めるため、「一般的に受け入れられている倫理基準」の観点から見るとむしろ(日常的な意味で)倫理的な人に見えることがよくあります。
これは、人と人との相互作用の分野において、論理型は不確実さ・不十分さを感じやすいところから生じている特徴です。論理型は、自分が何か間違ったことをしたり、言ったりして、自分の倫理的無能さを見せてしまうのではないかと恐れています。そしてそれを避けるために、彼らは「客観的に存在する社会的コミュニケーションの規範」から外れないよう心がけます。
倫理型は、コミュニケーションにおいて、非言語的なチャンネルで最大限の情報を受け取ります(相手の身振りやポーズ、表情や声色、目の動き、心情、さらには呼吸数まで観察します)。
論理型は原則として、この点ではあまり成功できません。どちらかというと論理型は、文字や発言の内容から直接情報を得ようとします。
論理型は、人や集団のつながりを理解することを、倫理型よりも苦手としています。それよりも、彼らにとっては新しい自然法則を策定したり、新しい技術装置を発明するほうが簡単です。
それとは裏腹に、倫理型にとって「無生物的なテクノロジー」は、あまり親和性のあるものではありません。しかし、人間関係やそれに関連する科学の分野では、倫理型はもっと自由を感じて、新しいアイデアを生み出し、心理学や経済学の新しい理論の創造者となることもできます。
倫理と感情(emotionality)
感情(Emotional)の表出とは、以下の要因に依存しているものです。
- モデルAのFeの位置
- 人の気質(エネルギー交換レベル)
- 個人の資質
-
最も感情的(emotional)なタイプは(Fe:Ni)と(Fe:Si)です [5]。これらのタイプのFeは4次元性であり、他の機能に依存してもいないためです [6]。
しかし、彼らは感情(emotions)を完全にコントロールすることができます(少なくともある程度の範囲内で)。NiやSiからの情報信号があるまで、彼らは長い間に渡って感情(emotions)を内に秘めることができます。
他者から見て非常に感情的(emotional)に見えるのは、(Te:Ni)と(Te:Si)となるタイプの両方です [7]。これらのタイプでは、規範機能(役割機能)の位置にFeが存在するためです。受容機能 [8] としてのFeは、生産機能としてのFeよりも、表現される感情(emotions)の強度が大きいという特徴があります。
-
最も生み出す感情(emotionality)量が大きいのは、率直的・自己主張的な気質(EJ)です。その次に多いのは柔軟・可逆的な気質(EP)であり、バランス型・安定型気質(IJ)、受容的・適応的(IP)がそれに続きます。 [10]
バランス型・安定型気質(IJ)のほうが受容的・適応的(IP)よりも先に来ている理由は、自身のエネルギー的な発現を受容するFeと安定性によって説明されます [9]。
-
人の精神的なエネルギーの特性は、弱い [10] Feを持つタイプであっても、パワフルで長期的、集中的な感情(emotional)表現を示すことがあります。
また、(Fe:Ni)や(Fe:Si)となるタイプ [11]は、長期間にわたって非常に控えめなレベルに感情(emotions)表現を抑えることができます。
なお、ここでサブタイプ [12] の存在を忘れてはなりません。(Fe:Ni)の場合は直観論理サブタイプが、(Fe-Si)の場合は感覚論理サブタイプがあることに注意してください。
◆◆◆
結論:
人の感情(emotional)の表出とその分析は、ソシオニクスの「倫理」というカテゴリーと関係があります。しかし、ソシオニクスの倫理は、決して「感情的な人(emotionality)」という言葉と同一ではありません。
ソシオニクスの倫理は、現実を合理的に分析するものであり、感情(emotions)とは接点があるだけであって、常にそれに関連しているわけではありません。
特に、Aushraは(S.Kashnitskyによると)(Fi:Se)タイプ [13]を念頭に置いて次のように述べています。
二分法の識別の問題
タイピングの際、倫理型は、現実の多くの事柄や現象、特に人々とその相互作用に関連する事柄について、方法論的かつ論理的に議論できるということを心に留めておく必要があります。
ソシオニクスの倫理とは、相互作用や社会的行動の論理であるとさえ言えます。こうした「論理」について、倫理型はうまく機能します。また、厳密な科学分野において、簡単な問題を解決することも十分可能です。しかし、数学や化学といった専門的分野に対して強い自信を持っているように感じさせることはありません。
一方、論理型にとって「社会の発展に関する多くの側面」を理解することは難しいと感じやすいことです。
その結果として、一見すると通俗的な意味で、「いかにも論理的」に見える分野、例えば経済理論や、他の多くの科学分野を支配する規則性や法則の多くが、論理型にとっては理解しにくいということが起こります(もちろんプロフェッショナルなレベルに到達することも不可能ではありませんが)。
ソシオニクスにおける論理とは、物質的(無生物的)世界の相互関係の倫理だと考えるのが妥当かもしれません。
◆◆◆
タイピングにとって興味深く、かつ重要な事実は、「倫理型の論理は規範的であり、それ故に倫理型は自分の考えや行動の『論理性』に非常に関心が強い」ことです。このため、倫理型はしばしば権威、法律、規則、およびその他の「議論の余地がない」情報源を引用して、形式論理学的な要素に頼ろうとします [10]。
形式論理は、最も簡単にアクセスできる「論理ツール」です。形式論理を駆使した「高度な」倫理型が、論理的な面で大きな成功を収めていることがある点に注意する必要があります。
Aushraは次のように説明しています。
すべてのソシオニクス倫理型の論理は規範的です。
彼らは全ての論理的規範を厳密に実行し、新しい論理的関係、方法、またはアプローチを発見も開発もしません。そんな彼らにとっては、科学的であるか、少なくとも一般的に受け入れられ、証明されているものが重要になります。
論理的推論をする際、倫理型は非常に慎重であり、自分の推論が完璧だと思うこともありません。
これと同じ理由で、倫理型が抱く論理的な興味の範囲はかなり広く、論理型以上に様々なトピックを読み漁るため、科学的真理の優れたストーリーテラーであることがあります。
逆に、論理型はむしろ文化的、人道的、芸術的な分野でしばしば博識です。これは彼らの倫理的な基準を理解する能力を育むことに繋がります [1、p.141]。
倫理型が形式論理に傾倒するのに比べると、論理型の行動はあまり形式論理に依存していないことがあります。
それよりももっと意味のある、実証的な論理 [15] を用います。倫理型が権威を重視するのとは対照的に、論理型は権威に対して批判的な立場をとることもあります。
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総括すると、この論理/倫理という二分法の識別は複雑だと言わざるを得ません。
なぜなら成熟した年齢の、知的に発達した大多数の人間は、自分の二分法の極の資質だけではなく、反対の極の資質もまた獲得しているからです(論理型は倫理的側面を発達させ、倫理型は論理的側面を発達させるという風にです)。
ユングを基にする二分法のうち、この論理/倫理という二分法は、タイプ判定の決め手になることが最も稀な二分法です。発達の仕方の個人差がかなり大きいからです。
出典より、参考文献リスト:
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訳注
- ^ 動詞と名詞に焦点を当てるのが論理型、形容詞に焦点を当てるのが倫理型。この2つの型は、想定する「賢さ」の像が異なっている、ということを示すための例え話だと思われる。
- ^ この文の後続で、ユングは具体例をあげている。外向感情型が恋人選びをする際、感情のあり方、つまり恋をするかしないかを大きく左右するポイントは「相手の身分・年齢・資産・身長・立派な家族」、つまり客観的価値の高さであると説明している。
- ^ 批判を超越した考え、習慣、または制度のこと。
- ^ (Si:Fe)、(Fi:Se)、(Te:Si)、または(Ne:Fi)とは、SEI, ESI, LSE, IEEのこと。
- ^ (Fe:Ni)と(Fe:Si)とは、EIE, ESEのこと。
- ^ 4次元性機能は第1機能と第8機能の2つがあるが、特に第1機能は「オーケストラの指揮者」として例えられる。関連記事「4次元性機能の特徴とタイピング時の注意点」
- ^ (Te:Ni)と(Te:Si)とは、LIE, LSEのこと。
- ^ モデルAの第1, 3, 5, 7機能のこと。詳しくは記事「モデルA」参照
- ^ 受容機能はモデルAの第1,3,5,7機能のことであるが、IJの場合Feの位置はINTj=5, ISTj=5, INFj=7, ISFj=7(すべて受容機能)。それに対してIPの場合、INTp=4, ISTp=4, INFp=2, ISFp=2(すべて受容機能ではない)
- ^ ここでいう「強い/弱い」というのはソシオニクスの機能の二分法のことである。第1,2,7,8機能は「強い」、第3,4,5,6は「弱い」に分類される。詳細は記事「モデルA」参照
- ^ (Fe:Ni)や(Fe:Si)とは、EIE, ESEのこと。
- ^ 接触・不活性サブタイプのこと。Ni-EIEの場合、第2機能Niや第3機能Te、すなわちNiTe=Ip気質的な影響が強まる。Si-ESEの場合、第2機能Si、第3機能Te、すなわちSiTe=Ip気質的な影響が強まる。関連記事「二分法の外向性と内向性の正しい理解について by Trehov and Tsypin」の診断の章を参照。
- ^ (Fi:Se)とは、ESIのこと。
- ^ おそらくClyde Kullというエストニアの外交官のこと。ESI。
- ^ 思考だけではなく、体験に基づく事実などによって結論付けられた論理。
訳者考察
Feelingは「(喜怒哀楽などの様々な)感情・感じ・印象・気持ち」。Emotionは「理性に対する意味での感情、情緒、(特に)強い感情」。
ソシオニクスの生みの親であるオーシュラは「人間の感情(чувств, feelings)の物理的性質に対する理解が欠如しているため、感情(чувств, feelings)と感情(эмоций, emotions)は常に混同されています。しかしながら、感情(emotions)は、内分泌系の興奮や抑制の現れに過ぎないものです。」と解説している。関連記事「ソシオン」
本記事はwikisocionの英文を訳したものだが、ソシオニクスの中心地はロシア語なので、ロシア語の「感情」を補足しておきたい。
ロシア語には感情を意味する言葉が複数ある。下記の①はソシオFeに紐づけられる。ソシオFeは「этика эмоций; ethics of emotions」と呼ばれることがある(グレンコの公式サイトなど)。
②の感情には、Fe以外の情報要素に含まれるものもある。例えばTiは「二つのオブジェクトを、ある客観的な特性(例:距離、重さ、体積、価格、強度、品質など)に基づいて比較する際に生じる論理的な感情がここ(Ti)に分類されます(К логическим относим чувства, которые возникают при сравнении одного объекта с другим на основе какого-либо объективного пара・метра. )」と説明される:関連記事「ソシオン」。
①②がソシオ文献に頻出する上に、意味が紛らわしい語として文献「ソシオン」上などで注意喚起されている語なのに対し、③④はそれほど焦点が当たることはないが、意味的には③はソシオFeに、④はいくつかの情報要素に分散されるのはないかと思う。①Эмоция:ソシオ文献では主にEmotionと英訳される。瞬間的な強い感情反応を意味する言葉。生理学的な反応や表情を伴う。笑う、泣く、怖いなどの一時的な感情。ソシオニクスの生みの親であるオーシュラは、Эмоцияを「内分泌系の興奮や抑制の現れ」と解説している。関連記事「ソシオン」)
②Чувство:ソシオ文献では主にFeelingと英訳される。現実または抽象的なオブジェクトに対する主観的な評価態度を反映する人間の感情的なプロセス。感情全般を表す言葉として広く使用される。視覚、聴覚、触覚などの感覚や、愛情、悲しみ、喜びなどの感情。Эмоцияと比較した場合、特に「あの人が」好き、嫌い、怖い、憎いなどの持続的な感情のことをさす。
③Аффект:短期間と強い強度を特徴とする爆発的な性質の感情的プロセス。情動や感情の高まり。
④Настроение: 「気分」や「ムード」など。一時的で変わりやすい心理状態を示します。例えば、楽しい気分、憂鬱な気分、怒りっぽい気分など、その時々の精神的な状態を表す言葉。政治的ムードなどの「ムード」(誰かに対する期待のムードや落胆のムードなど)もこの単語を使用する。オリジナルテキストのリンクが切れていたため、原典(おそらくロシア語)から英語に訳す際、どこまでFeelingとEmotionを意識して書き分けていたのかは不明。
MBTIにはFeeling/Thinkingという二分法があるが、FeelingとEmotionとを区別することが必要であると説明されている。MBTIのFはFeelingであってEmotionではない(MBTI公式サイトの説明。外部サイト:Thinking or Feeling(https://www.myersbriggs.org/my-mbti-personality-type/mbti-basics/thinking-or-feeling.htm(リンク切れ)))。つまり「F型は感情的(emotional)で嫌だ」とか「いやT型のほうが感情的(emotional)だ」とか「うちの親は感情的(emotional)だからFに違いない」というのはすべてナンセンスな話である。
MBTIには派生理論があるが、その中でも主流となっている影の機能モデル(ざっくりいうとMBTIの第5機能~第8機能まで考えたモデル)では、感情機能に限らず、思考・直観・感覚を含めた全ての機能そのものを「強い感情(emotion)を伴う高次の精神的活動を、意識という世界に向けて翻訳する「通訳者」のような存在」として説明することがある(関連記事「影の機能モデル(MBTI派生理論):はじめに」)。つまりTi、Te、Si、Se、Ni、Ne、Fi、Fe全てがemotionなものであるということであり、影の機能モデルにおける機能が目立つ人が「emotional」だといえるかもしれない。例えば思考(T)が第1機能(英雄元型)の場合、「感情に流されず、この世の全てを数字で判断する人物」というペルソナをかぶり、過度に「私は論理的な人間だ」「感情なんていらない」と強調しようとすることがあるが、このような人物は「emotional」であるといえるかもしれない。
ユング自身は、感情を英語 Feelingに近い意味として使用しており、Emotionと意味を使い分けていた可能性がある(つまりこの点ではソシオニクスよりもMBTIのほうがユングに忠実であるといえる可能性がある。ソシオニクスの側から言い訳するとすれば、そもそもソシオニクスは「ユングのタイプ論を進化させよう」として作られたものではなく、ユングを含む様々な理論を参考にして作られたものであり、ユングに忠実であることは最初から求めていなかった)。
本稿の本文中にも登場した、ユングのタイプ論の以下の一文は、感情タイプについて述べた一文である。
外向的な態度における感情(Feeling)は、「客観的なデータ」に従って自らを方向づけます。すなわち客体(この場合「客観的なデータ」)が「感情(feeling)のあり方」を決める上で不可欠な要因になっています。ここでは感情(feeling)は客観的価値と一致します。
この一文は、ユング自身が書いたドイツ語の原典では" Die Persönlichkeit erscheint daher als in die objektiven Verhältnisse eingepasst. Die Gefühle entsprechen den objektiven Situationen, und den allgemein gültigen Werten. "となる。
(外部サイト:Psychologische Typen by C. G. Jung)Gefühleが気持ち、感情という意味である。
ドイツ語には他にEmotionenという言葉もある。GefühleはFeeling、EmotionenはEmotionへと翻訳される場合がある。Emotionenは ① 喜怒哀楽などの感情(= Gefühle)+ ② 心拍数や笑い声などの物理的反応 + ③ 思考プロセス(記憶、意志決定)の3種類を含む言葉であると説明されることがある。外部サイト:Unterschied: Emotionen und Gefühle )
ユングのタイプ論の中では、Gefühleは58回使用されているのに対し、Emotionenは3回しか使用されていない。