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表記ゆれ
この二分法は、下記のように呼ばれることもあります。
陽気、主観主義、昇順、上昇
深刻、客観主義、降順、下降
分類
主観主義:全てのアルファ・クアドラとベータ・クアドラ。
客観主義:全てのガンマ・クアドラとデルタ・クアドラ。
α | β | |||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
ILE | SEI | ESE | LII | EIE | LSI | SLE | IEI | |
主観 | 〇 | 〇 | 〇 | 〇 | 〇 | 〇 | 〇 | 〇 |
客観 | ||||||||
γ | Δ | |||||||
SEE | ILI | LIE | ESI | LSE | EII | IEE | SLI | |
主観 | ||||||||
客観 | 〇 | 〇 | 〇 | 〇 | 〇 | 〇 | 〇 | 〇 |
典型的な特徴
陽気・主観主義
- 感情的な背景に気づくのが得意で、感情的な側面(特に「楽しさ」)を活動から切り分けることができます [1]。
- 自然に初対面の人と知り合いになります。その場ごとのコミュニケーションの目的をよく理解しています。適切な距離感(感情的な距離感)を簡単に確立し、それに適応したり、調整・操作できます。感情の「輝き」によって容易に距離を縮めることができます。相手との関係性や距離感を設定する上で、相手の名前またはその他の形式(肩書など)は、それほど重視していません。そのため、形式的な自己紹介にはあまり関心を示しません。
- 自分や他人の体験から「客観的な真理」を推論しません。「真理」とは各人の信念、意見、意図などの延長線上にある相対的なものでしかなく、人によって「真理」は違うと認識します。他人の行動を評価する際は、「一連の主観的な基準」に従って、正しいか正しくないかを判断します。他人の見解と自分の見解を比較し、自分の見解を説明することで、自分の話している概念を、全ての関係者が理解できるようにしようとします。
- 状況について別の概念を提案する(または押し付ける)傾向があります(「こうやって見てください」)。何かが間違っていると感じたら「なぜそうなったのか」を質問します。「最適」について話す場合、「主観的」なことについて傾向があります(「何と比較して最適か?」)。
- 「『楽しみ』とは、積極的な関与・参加であり、絶え間ない興奮の状態を意味します。『楽しみ』は、余暇や休息とは混同できないものです」「私には、物事をどのように行うべきかについて独自の考え、『自分の心』があります。しかし他の人もまた同じことです」
深刻・客観主義
- 感情的な背景に気づくのが苦手で、感情的な側面(特に「楽しさ」)を活動から切り分けることができません。
- 儀式(例えば紹介)を通して、人と顔見知りになります。もしも相互作用の文脈が外部的に設定される場合(例えば結婚を前提としたお見合いの場合)、最初の段階をスキップして、より密接な相互作用から開始することを好みます。「ルール」と「儀式」によって定義された段階を経ながら他者との距離感を縮めようとします。この場合の「ルール」と「儀式」は、外的に存在しているルールや儀式である場合もあれば、彼ら自身によって作り出されたものである場合もあります。知り合いになる過程の段階(見ず知らずの人という関係性から、顔見知りという関係性に移行する段階)を非常に強く認識しています。肩書きや名前など、相手に関するあらゆる情報を重視しており、きちんとした紹介を必要としています。
- 「客観的な真理」があると信じる傾向があります(「真理は必ずしも相対的なものではありません)。そのため、行動・視点には主観的なもの(個人の好みや動機と結びついているもの)と客観的なもの(たった一つの「正しい」または「最良の」方法)があると考えます。「正しいかどうか」は、彼ら自身が「客観的に正しい」と認識しているものと比較することで判断されます。意見が対立した場合、まず相手がその概念や用語を「正しく」理解しているかどうかを確認しようとします。
- 自分が「最善」または「正しい」と考える方法を提案(または押し付ける)する傾向があります(「こうすべきです」)。何かが間違っていると思えば、「誰がそうしたのか」を質問します。「最適」について話す場合、「客観的」なことについて話す傾向があります(「絶対的な最適値は何か」)。
- 「仕事と遊びを完全に切り分けることはできません。仕事にも『楽しみ』の要素が必要です。それがなければ、仕事というものは成り立たないでしょう」「間違ったやり方をしている人を見かけたら声を掛けます」「最も適切な『釘を打つ方法』はひとつしかありません」
典型的な特徴(拡張版)
2003 年のレーニンの特徴の研究から取得。
陽気・主観主義
-
主観主義は、人々との接触に伴う一般的な感情的背景(例えば、熱意、楽しさ、ストレスなど)に気づくのが得意です。
主観主義は「楽しさ」(および、他のすべての感情的な経験)を、活動とは別の側面に割り当てて認識しています(したがって主観主義は「何をしていましたか?」という質問に対して、「楽しんでいました」と回答することがあります。彼らは「感情的な関与」を活動のひとつの在り方として認識しています)。
-
主観主義は、「誰かと知り合うこと」を特別な活動として認識していません。
一方、深刻(客観主義)は、それを一種の儀式として認識しています。主観主義は、「なぜこの人と知り合いになるのか(この知り合いの目的は、興味、仕事、旅行のためである)」というのを、よく把握しています。
客観主義とは対照的に、主観主義は知り合いになるプロセスを、連続した段階に分けたりはしません。その時々の接触に必要なだけの感情的な距離感を即座に設定し、必要に応じて調整できます。
あまり親しくない人たちを相手にする場合、心理的なギャップを埋めるために、感情的なトーンを上げます。
人の「名前」といった情報は、そこまで重視しません。そのため、人と知り合う際に必要な形式を考慮しません [2]。
-
主観主義は(客観主義とは対照的に)、自分の経験や他人の経験を一般化して、「客観的に正確な」規則や法則を導き出そうとはしません。その代わり、主観主義は、どんな状況であっても「他人は異なる基準や独自の見解を持っている」と考えます。
そして自分の行動や他人の行動が正しいか正しくないかを評価する際は、自分の「主観的」見解と照らし合わせ、自分の個人的な概念の定義や「自分のシステム」、自分の意図などに従って評価します。
主観主義は、「正しい方法」や「別の方法」を提案(押し付ける)傾向はありませんが、その代わり「そのテーマに関する概念的な枠組み全体」を提案(または押し付ける)する傾向があります。つまり「こうしろ」とは言いませんが、「別の見方をしろ」とは言います。
(客観主義とは対照的に)主観主義は、「あらゆる状況において客観的に正しい・真実のやり方」が「ただ一つだけ存在する」とは考えません。もしも何かが間違っていると感じた場合、「何をやっているんだ」と聞きます(こういった状況で、客観主義が「なぜこんなやり方をするんだ」と聞くのとは対照的です)。
主観主義が最適性について語る場合、それは「自分の考えやコンセプトの枠組み内での最適性」であったり「自分の主観的アプローチの枠組み内での最適性(どの観点から、何と比較して、それが最も最適といえるのか)」を意味します。そのため、自分の見解と他人の見解を対比させ、自分の立場を説明しようとします(概念の検証をしようとします)。
「もしもこういう意味だった場合はこうしますが、違う意味だった場合は違うようにします」
-
概念の比較・検証は、主観主義に共通してみられる現象です。それは方法だけでなく、その理解や用語にまで及びます。
主観主義は「人それぞれ異なる形で、概念や用語を理解し、解釈する可能性がある」ことに注意を払っています。用語や他人の行為というものも、個人の意見、立場、意図などとは切り離せない「主観的な概念の一部である」と認識します(「(私の意見・立場・私の意図を踏まえて、私は)この用語で呼ぶことにします」)。
客観主義が用語を「客観的なもの」だと認識するのとは対照的に、主観主義は用語の背後にある個人ごとの違いを理解し、それらを比較・検証しようとします(これは十分に定義が確立されている用語にも当てはまります)。
「あなたはそうだと言っているけど、私は(あなたの言っていることとは違って)こうだと思います」
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主観主義の多用する語彙:
行動について、あるいは共同で行う作業について話し合う際、「私の見解では」「私の理解では」「私の知識では」「私個人の基準では」「私の理解と同じです」「私はそう結論づけました」「彼はそう主張しました」などの表現を使用します。
状況への介入がどのような方法で行われたか、またはなぜ行われなかったかを詳細に説明しようとします。
深刻・客観主義
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深刻タイプは、共通の感情的背景を認識するのが苦手です。例えば「楽しい」という感情移入した概念を別個のものとして認識せず、直接的な感情的要素を持たない解釈に置き換えてしまいます(「楽しい」という言葉の代わりに、「エンターテイメント」、「レジャー」、「喜び」などを使用する場合があります)。
感情的な交流を独立したものとして認識せず、他の相互の事柄と混同する傾向があります(仕事をしながら楽しむ、楽しみながら真剣勝負をする、など)。
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深刻タイプは、初対面の人と知り合いになる際、互いの距離を縮めるための特別な儀式を必要とします(この儀式が行われなかった場合、例えば「自己紹介がなかった」ような場合、深刻タイプは「相手と知り合いになった」とは認識しません。「自己紹介をしなかった」というように)。
深刻タイプは、感情的距離の程度が外的にあらかじめ決められている場合、それに容易に馴染みます [3]。これによって、知り合いになるための最初の段階をスキップして、より親密な対話と接触に移行することがあります。
よく知らない人との距離を縮めるために、深刻タイプは段階的な付き合いのための一定のルールや儀式を作ります(あるいは既にあるものを利用します)。深刻タイプは、知り合いになる過程の段階(「顔見知りではない人」がどのようにして「親しい人」になるか)を強く認識します。したがって、深刻タイプにとってきちんとした自己紹介は、人と知り合いになるための非常に重要な段階となります。
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客観主義は、何が「客観的に知られている」事実、規則、法則、一般的な(共通の)経験で保持される規則性を構成するかという概念を持っています。彼らの認識では、「一般的に正しい」「常に正しい」ルールとガイドラインが存在します。他の人々が独自の見解や立場を持っている可能性があるという仮定自体は持っていますが、「特定の主観的な観点を基準においた場合、正しいと言える、あるいは正しくないと言える」という形の判断はしません(「客観的に正しい」行為というものが存在することは認めます)。
したがって、客観主義の視点から見ると、行動は、「個人の好みや動機によって決まる」主観的なものと、「唯一の『正しい』『最も効果的な』方法」という客観的なものとに分かれることになります。客観主義は、「客観的に正しい」ものを基準にして、行動が正しいか、あるいは正しくないかを判断しようとします。
客観主義がある活動を達成するための方法ついて「最適解がひとつしかない」という認識を持っている場合、「その方法ではなく、こちらの正しい方法でやれ」と提案しようとする(または押しつけようとする)傾向があります(主観主義が自分の見解や概念の定義を提案したり、押し付けるのとは異なっています)
最適性について語るとき、彼らは一般的な最適性、すなわち「客観的最適性」を語ります(この際、彼らは何かを行うための「正しい」「一般的に最適な」方法を知っていると考えています)。人と共同作業する場合、「最も効果的」な方法を提案します。
意見が対立した際に、概念の比較・検証を行うのではなく、相手が「正しい」「一般に認められた」「確立された」概念・用語を知っているかどうかを確認しようとします。
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(主観主義とは対照的に)客観主義は、概念の比較・検証をする必要があるとは、あまり感じません。「正しい」「正確な」解釈は一つしかないと考え、相手が別の枠組みの中で別の解釈をしている可能性があることは考えない場合が多いです。
「客観的な現実」「明白な事実」といった概念で動いており、概念の検証をしようとしません。「これは、この用語で呼ばれる」という概念の検証をしません。自分たちが「正しい」やり方、「本当の姿」を知っていると考えます(「客観的に正しい」ある種の世界像しか認めません)。
「あなたはそうだと言っているが、実際はこうなのだ」
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行動の説明や共同作業の議論では、「説明的」な語彙の代わりに、多くの例を挙げます(彼らが挙げる例には、すべての「正しい」行動様式と「正しくない」行動様式が描かれています)。
備考
この拡張版の研究では、エンターテイメント関連の性質に関するクアドラの性質の仮説は誤っていたことが示されました。また、「深刻タイプの人々は公の場で『子供っぽい』態度を示したり、行動したりしない」という広く信じられていることも、真実ではないことが証明されました。おそらく、そのようなケースの大半では(例えば、大人が雪の丘を転げ落ちるようなケース)、状況が仲介役として働き、既存の対人関係の境界が緩和されます [4] 。
仮説
二分法「倫理 / 論理」は、この特性の属性の一つを強化します。倫理は主観主義を強化し、論理 - 客観主義を強化します [5]。
例
陽気・主観主義
「楽しいということは、たくさんの感情があることです。友人と一緒にニュースを交換したり、何か食べに行ったり、歌を歌ったりすることです」
「楽しいというのは、積極的に参加することです。何かを見たり読んだりすることは教育的ではありますが、楽しみとは混同できないものです。楽しみとは常に興奮している活動的な状態であり、レジャー(安静状態)と混同してはならないものです。私にとっての楽しみは、(喧嘩や言い争いではない)生き生きとした会話です」
「本を読む、オペラを観る。これは『楽しい』ことではありません。『楽しい』ことは活力を高めます」
「楽しいとは、皆が真剣でないときの『解放された状態』のことです」
「楽しいこととは『無謀なこと』『みんなが参加すること』『境界を飛び越えること』です」
「新しい会社に出社したとき、誰も私のことを紹介してくれなかったとしても、私にとってそれは問題ではありません」
「おしゃべりしている相手のフルネームを知らないことが結構あります」
「人と接触するプロセスは、どのような形でも構いません。相手のことがよくわからなくても構いません」
「私にとって、会社で一緒に働く人の名前を知ることは、重要なことではありません」
「自分と熱いキスを交わした人の名前を思い出すのに一週間かかりました(将来の夫について)」
「誰かが何か間違ったことをしているのを見たとき、私はまずそれが自分の活動と関係あるかどうかを考えます。そして自分に関係している場合の最初の反応は、一歩下がって、その人に十分に任せるというものです。確かに自分なりの基準というのはありますが、他の人は自分とは異なる基準を持っているかもしれません」
「まず斧を下ろし、それからその理由を説明する」
「与えられたテーマ・トピックに関連することはすべて言ったと思います」
深刻・客観主義
「仕事と楽しみを区別するのは難しいです。『楽しみ』の定義が難しいです」
「何事にも真剣に取り組みます。休むと決めたら、真剣に休みます」
「深刻な物事の中からあっても、常に面白おかしい何かを見つけ出すことは可能です。その逆もまた然りです」
「勉強は楽しくなければなりません。仕事もそれと同じです」
「私にとって『楽しい』とは何かはハッキリしていません。『仕事のない自由時間とは何か』、それは明確であり、『エンターテインメント(気晴らしの娯楽)とは何か』、それも明確です」
「初対面の人と会う場合、誰かに自分の紹介をしてもらうことは大切です。もっと言えば、自分のことを、少しでも知っておいてもらうのが大切です」
「私は、相手が提案した条件に基づいて他者と関わります。その接触が相手にとって『快』であるかどうかがわからない場合は、相手との関わりを控えます」
「私は、他人に自分を押しつけたり、他人からそうされることが好きではありません。 例えば初めて会った叔母さんが突然、私のことを『ハニー [6] 』とか、それに近い呼び方で声を掛けられるのは嫌です」
「名前は重要です。相手が名乗らない場合、それは『会話をしたくない』という意味であることが多いです」
「誰かが何か間違ったことをしているのを見たとき、その人に説明するために時間を使うより、自分でやってしまった方が早いと感じます。正しい『釘の打ち方』はひとつだけだと思います」
「明らかに無駄であったり、失敗することが目に見えていたり、もっと他に効果的な方法があるだろうという時に、他の人がそれに気付かず、不適切な方法を採用し続けているのを見ると、非常にイライラしてしまいます」
「非効率なことを見ると、胃がムカムカしてきます」
「常識に反するものを黙って見ているのは辛いです。もし可能なら、干渉して何とかしようと思います」
「その人の経験の枠の中で習慣化された方法と、客観的な方法とは違うものです(これは結果を見れば明らかです)」
理論的特性
主観主義(陽気) / 客観主義(深刻)という二分法は、「尊重する機能 / 控え目な機能」に含まれる合理的な情報要素と対応しています。 [7]
訳注
- ^ 仕事は仕事、遊びは遊び。仕事に楽しさを求めない。楽しくなければ遊びだとは思わない。
- ^ 「Aさんと顔見知りになる際、Aさんと親しいBさんに紹介してもらうこと」であったり「名前や年齢、職業、住んでいる場所など、その場で一般的に必要とされるような自己紹介をすること」を重視しないし、他者にもそれを求めない(主観主義にとって、それらはあまり重要な情報に感じないため)。
- ^ 例えば結婚を前提としたお見合いの場合、「結婚を前提とした距離感」に容易に馴染む。
- ^ つまり「感情的背景」に気付くのが得意な主観主義が、「その時々の接触に必要なだけの感情的な距離感を即座に設定し、必要に応じて調整」した結果として「子供っぽくみえる」態度・行動をとっているため、「主観主義の方が子供っぽく見える」というだけの話であって、「主観主義はいつも子供っぽい」というわけではないという意味。
- ^ 諸説あり。TrehovとTsypinは、倫理と「主観的であること」は混同できない概念だと指摘している。関連記事「二分法の論理(T)と倫理(F)の正しい理解について by Trehov and Tsypin」)
- ^ 恋人に対してだけではなく、親が子供に対して呼びかける際にハニーという言葉は使用されることがある。
- ^ 「尊重する機能」はモデルAの第1, 2, 5, 6機能。「控え目な機能」は第3, 4, 7, 8機能のこと。詳しくは記事「クアドラ」参照)