同情や共感、哀れみという名の侮辱
落ち込んでいる人に「私はあなたに同情しています」という言葉がかけられることがありますが、ベータ・クアドラが「あなたに同情しています」などと言うことはありません。
彼らはただ「同情や哀れみは人を辱める」という陳腐な言葉を引用するだけです。仮にベータ・クアドラ自身が誰かの気分を落ち込ませた場合であってもそうです(「私に悪気はないので、仮に私の発言であなたが落ち込んだとしても、特に『気の毒なことをした』と思って哀れんだりはしません」)。
「同情や哀れみは人を辱める」という言葉は、冷酷で利己的な人によって生み出された言葉なのかもしれません。なぜなら、同情や哀れみには、それに続く特定の支援と援助も含まれるためです。人に同情したり、哀れんだりするには、物質的なリソース・時間・お金・精神的および肉体的な体力が必要になります。
そしてベータ・クアドラは、「同情や哀れみ」にかかる出費のことをよく理解しています。そのため彼らは倫理的なトリックを活用して、この出費を削減しようとします。単に「出費が惜しいから支援しない」と言うのではなく、「同情や哀れみは人を辱める」という言葉を持ち出して、「私は他者を侮辱したくない」「だからこそ、私は他者に同情しない」というトリックを使います。
これによって彼らは出費を削減できるだけではなく、「人を侮辱しないという慈悲深さを示した」という体面を保てるため、倫理的優位性まで獲得することが出来ます。
ベータ・クアドラの場合、関係性の倫理(Fi)は「控え目な機能 [1]」にありますが、ベータ・クアドラの中でもSLEは、「宣言」特性を持っており、脆弱機能(+Fi4) [2] であるため、善と悪の境界が特に曖昧になりやすいタイプです。
そのため上述の倫理的トリックの例でみられるような不条理な理由をもっともらしく持ち出して、「善意」で覆い隠すことがあります(「人を哀れむことで、人を侮辱したくはなかったから」という理由によって、「人を支援をしない」という倫理的観点から見て「悪い行い」を覆い隠します)。
しかもこの「善意」は、極めて冷笑的な立場(すなわち反倫理的な立場)から提示されるからこそ、よりいっそう人の心を傷付けます。
二分法が「果敢」であるベータ・クアドラでは、下記が重視されます。
- 手遅れになる前に奮起すること。(-Ni↑)
- 迅速に、断固として立ち上がること。(-Se↑)
- あらゆる支配的な地位を占めること(+Ti↑、+Fe↑)
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ベータ・クアドラでは、「出遅れたノロマは敗者」です。敗者はすべての責任を負わされ、「スケープゴート」にされて、社会的なシステムから排除される可能性があります。
ベータ・クアドラのコミュニティでは、「自分は絶対に安全だ」と感じることは非常に難しいです。ここでは、たった一つのミスで足元をすくわれてしまいます。一度倒れると二度と起き上がれません。
一度注意を受けただけで解雇候補者のブラックリスト入りしてしまい、「人員削減のため」であったり「チームの総意」によって解雇されてしまいます。
「話し合いの結果、あなたをリストラすることに決めました。あなたはよく遅刻するから、その方がチームの皆にとって都合がいいと判断しました」
とはいえ、これはかなりマシなほうです。
ベータ・クアドラ社会にはひどい規則、ひどい規制がよくありますが、そんな社会では、ほんの少しつまづいてしまっただけで最悪の事態を招くことがあります。ちょっとしたルール違反で「悪質なルール違反者」としてブラックリストに名前をメモされてしまい、その後地獄のような苦しみを味わうことになります。
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ソ連のスターリン時代には、15分の遅刻に対して最大3年の懲役を科すという残酷な行政処分が常態化していたことを思い出せば、これは十分理解できるかと思います。
ベータ・クアドラの社会では、「押し合い」の原理による「選別」「粛清」「脱落」「弱者の追い出し」があらゆるところで、あらゆる階層で行われます。エリート階層では、支配的な地位を得るための争いが最も激化します。
このような社会的システムにおける「有罪」には非常に重要な役割があります。これは不要なバラストを捨てることに似ています [3]。誰かが有罪になってその場から消えることで、他者を救い、他者がシステムに留まるのをサポートするという側面があるのです。
ベータ・クアドラの誰もが「スケープゴート」になりたがりませんが、誰もが「スケープゴート」と書かれたクジを引く可能性を持っています。
そのため1度のスケープゴートの儀式で、少しでも多くの罪を洗い清め、「次のスケープゴートのクジ」の確率を小さくするために、ベータ・クアドラの人々は、荒野へ追いたてるヤギにおよそありとあらゆる罪を背負わせようとします。
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ベータ・クアドラ社会で「ふるい落とす」必要がある人数は、「与えられた計画」に従って指令的に決められることが多いです。
例えば異端審問の時もそうでした。計画通りの人数の「異端者」を焼くために、まだ言葉を話せない幼い子供たちが異端者として告発されたのです。そして当時の神権的エリート階層は、これを恥ずべきことだとは思っていなかった節があります。
「罪のない子供が死んだとして何か問題はあるのか?無垢な子供は無垢なまま天国に行く」
これと似たような言葉を、ある教会の高位の聖職者も残しています。
「私たちが正しい人間と正しくない人間を区別する必要はありますか?すべての人を処刑すればいいのです。正しい人間は主によって救われるでしょう」
彼らの頭の中から、キリスト教の慈愛の教えも「汝、殺すなかれ」という戒めも抜け落ちていたことは確かです。
完全な抑圧と「粛清」の時代には、社会そのものが犯罪的で非人間的なヒエラルキーと化します。社会システムが、「コミュニティのメンバーの利益の擁護者」から、「メンバーではなく社会システム自体(しかも抑圧的で退行的なシステム)に奉仕する悪の帝国」に変貌してしまいます。スターリン時代の弾圧下では、12歳の子供が「極刑」(銃殺刑)に処されたこともあります。これは今日の神権的・権威主義的な政権をもつ国々でも同様です。
ベータ・クアドラ社会において、人は皆、心のどこかで自分が潜在的な犠牲者、潜在的な追放者、「排除される候補者」だと感じています。もしこのことを忘れていたとしても、善良で親切なベータ・クアドラの人々、つまり誠実な隣人や友人たちによって思い出されることでしょう。
彼らはあなたを自分たちのそばに連れて行って、こう言うかもしれません。
「政治の授業で講師と口論したんだって?お前は自分が誰で、口論をしかけた相手が誰なのか忘れてしまったのか!」
この忠告は、間違いなくベータ・クアドラの人々の純粋な好意と友情の気持ちから行われていることです。ベータ・クアドラ社会においては、自分がどこに住んでいて、どんな社会で、どんな時代に、どんなふうに生きているのかを忘れてはいけません。
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ベータ・クアドラには常にヒエラルキー下層に押し込まれる恐怖が付きまといます。
その影響で、彼らはどんなに慣れた環境であっても「慣れすぎて無警戒になる」ことがありません。この恐怖がある限り、気が緩んで警戒心を解くことなどあり得ません。ベータ・クアドラは常に自分を守らなければならないと警戒し続けています。そして社会システムの中で最も脆弱な要素、「不要」で「危険」で「負荷の原因になる」要素 [4]に何らかの攻撃が加えられているのを見たら、これ幸いにその脆弱な要素をシステムから排除しようとします。その脆弱な要素が大きな問題を起こす前に、事前に取り除くべきだと考えているためです。
彼らはそれを不要な重複や廃棄物であるかのように投げ捨てます。真実の非難も、虚偽の非難も、本人の罪も、他人の罪も全てを抱えて、社会にこびりついている汚れを一身に引き受け、社会システムの底深く、ゴミ溜めのような最下層に転落していくのです。
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ベータ・クアドラ社会では、「心」、「名誉」、「良心」といった概念は、個人に属するものではなく、集団に属するもの、つまり「カーストに属する特権」になります。ここでは「心」、「名誉」、「良心」といった概念は、定期購入(言い換えるなら買収)されるような性質のものなのです。
例えばソ連には「党は我々の時代の知性、名誉、良心である」という非常に有名なスローガンがありますが、それを利用して、あらゆる種類の策士や成り上がりを望む人々が上の階層に入り込んでいくことになりました。パーティーカードを手に入れてヒエラルキーの上位者になれば、「賢くて良心的で信頼できる人間」になれます。そして、それ相応の待遇を求めることができるのです。
特に当時は、パーティーチケット(メダル、賞、卒業証書)を見せびらかす風習がありました。党員は(やましいことがない限り)無条件に信頼され、バラ色の未来が開かれていました。党員になれば、カーストの特権を巧みに使いこなして全能になることさえできました。思うがままに人を糾弾し、投獄することもできました。党員であり、エリート階級の人であり、社会と時代が生み出した最高のものを体現する集団の一部である彼は、信頼するに値する人間だからです。