クアドラ特性に関する予防法の開発
ヒエラルキーの下層階級に転落する恐怖(ベータ・クアドラ・コンプレックス)は、クアドラの支配的な特性に従ったコンプレックスに対する予防的措置の開発を促します。
「果敢」なタイプは、迅速に効果的な行動を起こそうとする傾向があります(言い換えると、軽率に、率直な行動をとります)。この傾向は、誰かに有罪判決が下った場合にも表れます。彼らは「迅速」で「残酷」な報復を与えるために、出来る限り厳しい処罰を与えようとします。
ベータ・クアドラの社会では、ただの「コミュニティからの追放」だけで罰が終わることはありません。アルファ・クアドラの社会では、「コミュニティからの追放」は非常に過酷な刑罰として認識されていましたが、ベータ・クアドラの社会では、ただの「甘すぎる罰」でしかありません。
閉鎖的な自給自足の社会では、ベータ・クアドラの「社会的システムの敵」を亡命させるのではなく(「亡命を許すなんて、敵を利するだけだ!」)、他の人々への見せしめとして、その場で即座に、断固として残忍に処分することになります。こうした罰が好まれる理由は、あまりにも多くの物事が危機に瀕しているからです。システムの社会的・政治的幸福、その戦闘力と回復力、団結力と結束力、つまり現在の存続も、将来の発展も、すべての保証が危機に瀕しているからです。
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「高く立つ者は多くの爆風に揺さぶられ、倒れれば粉々に打ち砕かれる」
ウィリアム・シェイクスピアの「リチャード三世」に登場するこの言葉も、ここでは考慮されます。
ベータ・クアドラは調子に乗って動きすぎることを恐れています。「間違ったソリに座る」ことを恐れ、間違った場所を主張することを恐れ(「すべてのクリケットには自分のポールがあります」)、他人の妬みや不満を誘引することを恐れているのです。
分別のある慎重なベータ・クアドラは、敵を作らないように努めます。あるいは、せめて目の届くところで敵を監視し、牽制して(銃口を向けて)、少なくともタイムリーに無力化できるようにします。そしてここぞというときに、ゲームから外します。「トカゲのしっぽ」として切り捨てたり、危険で危険なゲームで冷遇したり、「修道院」に送ったり、暴徒の怒りの下に放り出したり、すべてのトラブルを「敵」のせいにして、皆が「敵」を責めるように仕向けたりします。
古代には、社会に降りかかったすべての不幸は、そうやって「疎外された人々」を使って帳消しにされました。たとえば自然災害は、彼らが「神々を怒らせた」からだとされました。そして自然災害の責任は、非難と共に彼らに固定されました。その後、彼らは「神」のもとに送られて罰を受け、それが他の共同体のメンバーに消えない影響を残したのです。
神々への生贄を捧げるということで、儀式全体が非常に手の込んだ厳粛なものになりました。儀式自体が期待され、歓迎されました。社会はこれを求め、必要としていたのです。人々は、まるで中毒にでもなったかのように見世物に夢中になり、生贄の行列を効果的かつドラマチック的なものに変えていきました。こうした儀式は、「社会的システムの敵」に対する観衆の復讐と憎悪の欲求を満たしました。観衆は「疎外された人々」が苦しみや罰を受ける光景を楽しむことができました。
その後、古代ローマでは、これらすべての光景がショーになりました。この「公演」の主役のために、演劇用の衣装が縫われ、役割が決められ、豪華絢爛な「小道具」が作成されました。よりエキゾチシズムを高めるために、ライオンやトラなどの猛獣が死刑執行人として投入されたりもしました。このような見世物に憑りつかれて堕落し、常に何か新しい、華やかにアレンジされた娯楽に飢えた社会は、闘技場の犠牲者の数が減らないようにするために、「死刑になる」受刑者を絶えず一定以上確保していました。
これと同様に、近世のスターリン時代には、大多数の「目覚めた市民」たちが、「木を切れば木屑が飛ぶ」ということわざを持ち出して、大衆弾圧を正当化しました。社会は統合され、市民たちは積極的に当局に協力して、「罪人」を追い詰めることに貢献しました。この時、情報提供者(秘密の監視員)として、子供、年金受給者、学生から労働者まで、ありとあらゆる階層の人々が採用されました。
字がほとんど書けない一年生は、「いたずらっ子」「やんちゃな子」のブラックリストを作成させられました。休み時間は平和で子供らしい遊びのためではなく、リスト作成のために費やされ、子供たちは狂ったように走り回されました(そして子供たちが読み書きを学ぶのは、ほとんどこの目的の為でした)。
この時代、自分の身の安全を感じられたのは密告者だけでした。彼らだけが自分の考えを言うことができ、それによって他の人々を煽り、発言させることが出来ました。
彼らはそれぞれが「あなたは今日死に、私は明日死ぬ」という原則で生きていました。この原則は、ベータ・クアドラ・コンプレックスという社会的下層に落ちる恐怖から生じたものです。
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こうした非常に過酷な時代には、ベータ・クアドラ・コンプレックスは人の役に立ちます。
このコンプレックスの恐怖のおかげで、ベータ・クアドラは特に慎重で用意周到な行動が取れただけではなく(±Te↓)[1]、生き残るための激しい争いの中で得た僅かなリソース・特権・地位を大切に活用して、困難を乗り越え、勝利を獲得するための知恵を身に着けることが出来たからです。
ベータ・クアドラで支配的なすべての側面 [2] は、クアドラ・コンプレックスの恐怖を軽減するために機能します。
- 従順で独裁的な関係性の論理(+Ti) - LSIの自我ブロックに存在する「プログラム [3] 」は、どんな権力とも、どんな独裁的社会構造ともうまく付き合い、そのヒエラルキーの中で「自分にとって省エネで生存できる快適なニッチ」を見つけ出すことができます。これは「誰がその場の権力を握っているのかを嗅ぎ分ける力」です。
- 他人を自分に従わせるベータ・クアドラの断定的で自発的な感覚(-Se) - SLEの自我ブロックに存在する「プログラム」は、無実の人を「罪の重さ」で押さえつけ、権威主義的な主観の重さで相手を抑圧し、常に「最後の言葉」を自分が言えるよう仕向けることができます。
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LSIとSLEの2タイプに対して、彼らの双対であるEIEとIEEは屈せずにいることができます。
EIEは「利益」で権威主義的な感情の倫理(+Fe)の立場から、相手を激しく攻撃します。EIEは雄弁な演説者であり、卓越した公の告発者でもあります。この点に関してEIEに比肩するタイプは存在しません。EIEは、自分の発言の情熱で聞き手を魅了する方法を熟知しています。論争した場合は、相手に休む暇を与えません。
EIEは、実際には「切り札」がほとんどないか、まったくない場合でも、非常に説得力があるように発言するのが得意です。この力を活かして、EIEは積極的に身を守ることができます。彼らは息を引き取る最後の瞬間まで、罪悪感に振り回されたりせずに、自分の主張を押し通すことができます(これは典型的な「利益」「果敢」「戦略」タイプの特徴です。
適切な論理的議論が不可能な場合、EIEはしばしば個人的な主張を繰り広げ始めます。物事をすり替えたり、他人に責任を転嫁したりして、疑惑を自分からそらそうとするのです。「果敢」「主観主義」タイプの議論は戦争に似ています。勝つためには手段を選びません。
慎重で用心深いIEIは、感情に関する創造的な倫理(+Fe)においてはEIEに遠く及ばないものの、「プログラム」としてEIEを超える強力な時間の直観を持っています(-Ni) [4]。
「先見」「戦術」タイプであるIEIは、紛争が始まるずっと前から、「敵を武装解除して無効化するシステム」を用意して備えておこうとします。そして実際に紛争が始まったら、攻撃されない限り傍観者の立場で居続けようとします。もし攻撃された場合は、直観的なプログラムに従って、慎重に、タイミングを見計らいながら相手を「罠」にかけることもできます。そこから一転攻勢に出て、あからさまに不条理な反論を使って相手を打ちのめすことができます。
IEIの反論はどれも、よく観察すれば「蜃気楼」「感情の泡」「ばかげた議論」「シャボン玉」のようなものであることがわかります。それでも彼らは「戦術」タイプとして見事に守りを固めることができるため、しばしば議論においてIEIは不死身のようにさえ見えます。
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戦いに慣れたベータ・クアドラは、社会的システムから自分が押し出されることを許しませんし、社会的システムの隅に追いやられることさえありません。
すべてのベータ・クアドラは、クアドラやそのモデルで支配的な心理的特徴や側面によって、しっかりと保護(武装)されています。ベータ・クアドラが「馬上」にいるとき、つまり彼らが本領を発揮している時は、近づいてはいけません。
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しかし、ベータ・クアドラはしばしば不利な取引をしてしまうことがあります。
これは、ベータ・クアドラに対して「今、罪の一部を認めたら、減刑してやる」という形の交渉が持ちかけられた際に起こることです。自分自身や自分の大切な人を、ちょっとした不運や軽い罰則から救うためになるのであれば、彼らは抵抗を諦めて、この不利な取引を受け入れることがあります。
この司法取引が成立すると、ベータ・クアドラ固有の武器である「主観主義」という特性が抑えられます。また、ベータ・クアドラで支配的な関係性の論理 [5] は、後続のガンマ・クアドラの論理、すなわち「果敢」「民主主義」「客観主義」クアドラの現実的な行動の論理 [6] に取って代わられます(±Te↑, ±Ti↓)。そしてこれに伴って、ベータ・クアドラはその支配的な地位をガンマ・クアドラに譲ることになります [7]。
小さな損失を受け入れる代わりに、より多くを守り、維持しようとする努力の中で、ベータ・クアドラは司法取引に同意します(ベータ・クアドラはTiの観点に従って同意します)。そうしているうちに、ベータ・クアドラは、自分がこれまでとは別の関係のシステム、別の現実、別の時代、別の状況、すなわち「利益と、『果敢』『行動の論理(Te)』『客観主義』の計算によって成り立つガンマ・クアドラ的な実利的世界」にいることに気が付くことになります。そうして気付いた時には、彼らはすべてを失っています。
訳注
- ^ 機能についているマイナスは「インボリューション的」、プラスは「エボリューション的」という意味。Stratiyevskayaはエボリューション的を「建築的・肯定的」、インボリューション的を「再構築的・否定的」という意味で使用している。
↓は機能の抑制状態を意味する。ベータ・クアドラでは、Teは「控え目な機能」に分類される。 - ^ +Fe, +Ti, -Se, -Niのこと。ここでの機能のプラス / マイナスは、本出典の作者であるStratiyevskayaの定義に従っている。
- ^ モデルAの第1機能のこと。ソシオニクスでは第1機能のことをプログラム機能とも呼ぶ。
- ^ 機能の強弱については、記事「機能の次元」参照。IEIの場合、4次元性のNiと3次元性のFeを持つ。EIEは4次元性のFeと3次元性のNiを持つ。
- ^ Tiのこと。
- ^ Teのこと。
- ^ ソシオニクスには、人類史がアルファ的価値観→ベータ的価値観→ガンマ的価値観→デルタ的価値観の順で変遷するという考え方があるが、この記述はそれに基づくもの。