活性化関係
各パートナーは、双対ペアにおける双対関係の発展に基づく独自の行動モデルを、無意識のうちに活性化関係のペアとの関係にも持ち込んでしまいます。このESIの行動モデルは非常に単純かつ合理的ですが、対するILIの行動モデルは非常に複雑で、わかりにくいシナリオに従って進行します。
すでに認識されているように、ILIは征服される必要があります。関係の初期段階では、ESIはこのことに気付いていません。もし「ILIを征服する必要がある」ということを、ILIとの交流を始める前から知っていたならば、おそらくESIは最初からILIと関わろうとしなかったでしょう。なぜなら、相手を征服するとか、相手のために戦いに身を投じるというのは、ESIのスタイルではないからです。それにもかかわらず、ESIはしばしばこのゲームに引き込まれてしまいます。通常、これは次のようなシナリオで進行します。ILIと初めて会ったとき、ESIはILIに好印象を抱きます。ESIは、ILIを知的で、友好的で、謙虚で、それから最も重要なことですが、非常に孤独な人だと感じます。しかも単に孤独なだけでなく、孤独に苦しみ、この状況から救ってくれる「救世主」を待っている人のように見えます。さらに、この「救世主を求める声」は、ESIだけでなく、ガンマクアドラやデルタクアドラのすべての倫理タイプ [1]がしばしば察し、読み取ります。ただし、感覚倫理タイプであるESIとSEEは、直観倫理タイプであるEIIやIEEのアプローチよりも、より直接的で自己主張が強く、精力的な方法でILIを「救おう」とします。
この関係で、ESIはどのようにして活性化するのでしょうか。活性化者からの「シグナル」を受け取ると、ESIは自分こそがまさにILIを「監禁」から解き放つことができる存在だと感じ始めます。ESIには、ILIが長い間、孤独から解放し、癒してくれる誰かを待っていたように感じるのです。そしてもちろん、それにふさわしいのは自分(ESI)なのです!確かにその通りです。ILIは待つことが得意で、根っからの受動的な性格を持ち、プログラム機能 [2]であるNi(時間の直観)に従って、より能動的なパートナーが現れるのを待っています。ESIは、この関係において「解放の騎士」の役割を引き受け、できるだけ早くILIを停滞の殻から引っ張り出そうとします。しかし、ここでESIは過ちを犯します。それは、単に自分の力や能力を過大評価してしまうだけでなく、自分の倫理的プログラム [3]を過小評価しているからです。ESIの倫理的プログラムは、原則として他者に対するそのような干渉を許しませんが、ESI自身がそれを破ってしまうのです。
とはいえ最初、ESIの倫理的プログラムは、自らの手で問題を解決しようとすることには反対しません。一方で、ESIの創造的な感覚機能 [4]は「時間の直観(Ni)」の側面から活性化されます。つまりESIは、この人物(ILI)が長い間待ち続け、苦しんできたと判断し、迅速に具体的な支援を提供しなければならないと考えます。同時に、ESIは「可能性の直観(Ne)」の側面から次のように考えます:「この人物(ILI)をこの停滞から救い出せば、私(ESI)の最も誠実で忠実なパートナーになるだろう」。この考えはESIの頭に強く根付き、しばらくの間離れることはありません。また、これらの考えはESIの感情や人間関係に対する知覚に、一定の静的さと惰性をもたらし、ESIの創造的な感覚機能が幅広く、積極的に操作を行うことに繋がります。
ひとたび活性化されると、ESIの創造的な意志の感覚 [5]は顕著な拡張性を獲得し、同時にESIの内向的倫理機能が抑制されます。この期間中、ESIの主導機能と創造機能の優先順位が逆転します。この時、ESIは関係性の倫理(Fi)、つまり機転、謙虚さ、抑制をほとんど完全に忘れてしまいます。ESIは、自分の最高の倫理的使命が、この人物(ILI)を救い出し、「牢獄」から解放し、孤独な存在から救い出すことだと考えます。この目的のためには、手段を選びません。ここでESIの柔軟かつ操作的な感覚機能(ESIのSe)は、SEEの主導機能(SEEのSe)と同様に非常に直接的かつ断固としたものになります。つまり、ESIの行動モデルにおいてSeが支配的になり、ESIの謙虚さや控え目さはすべて、断定的な拡張主義に置き換わってしまいます(wikisocion訳注:これは感覚が倫理よりも優先されるという想定であり、ESIの感覚的「非合理的」サブタイプ(Se-ESI)においてより頻繁に見られます。倫理的「合理的」サブタイプ(Fi-ESI)ではこうしたことは稀で、自制とセルフコントロール(倫理と合理性を強調)を働かせ、感情を抑えながら長い間思い悩む傾向が見られます。)。魅力的なESIの人々が、「難攻不落」の活性化パートナーであるILIをどのように追い求め、具体的な支援や注意を払ったかという例は枚挙に暇がありません。古典文学の例を挙げれば、タチヤーナ・ラリーナとエヴゲーニイ・オネーギン [6]の関係がそれにあたります。育ちが良く、自己抑制できる少女が、どうして公然と若い男性の妻になりたいと主張できたのでしょうか。この行為は非常に不可解に見えますが、ソシオニクスの心理学や活性化関係のメカニズムの観点から説明することができます。
次の段階では、どこからともなくILIは障害を設け、妨げを作り始めます。ILIはパートナー(ESI)の活動と熱意を冷まそうとしますが、その方法はしばしば非常に非倫理的なものであり、ESIの活動が増すにつれて、ILIの抵抗はより厳しく強硬になっていきます(ご存じのように、例えばタチヤーナ・ラリーナ(ESI)が送った手紙は、あまりにも直接的で情熱的すぎたため、オネーギン(ILI)から取り返しのつかない辛辣な拒絶を受けました)。
時間が経つごとに、ESIは活性化パートナー(ILI)の「冷却」効果から冷静になり始め、ますます強まる抵抗に気付きます。ILIの双対であるSEEとは異なり、ESIはILIの抵抗を克服しようと継続的に挑むことはありません。これはILIにとって少々残念なことだと言えるでしょう。この時点で、ESIは自分の倫理的主導機能(Fi)と、自分が従うべきすべての倫理原則を思い出します。ESIは自分の行動の「過剰さ」を振り返り、押し付けがましさを反省し始めます。そうしてESIはILIと距離を置きます。
もしこの時点でコミュニケーションが途絶えると、関係の進展が妨げられたり、停止することになりますが、互いに対する感情や共感は長く残ります。この段階での「活性化パートナー」との別れは、「双対パートナー」との別れと同じくらい痛切に感じられます。そのため、再びコミュニケーションが再開されると、互いに対する感情や共感が再び呼び起こされます。通常、非合理タイプであるパートナー(ILI)は、なぜ相手が簡単に関係を終わらせて去ってしまったのか理解できず、関係を再開したいと考えますが、合理タイプであるパートナー(ESI)は、この点を理解し、二人の関係をきちんと整理して、細かい部分まで徹底的に問題を明確にしたいと考えます。
こういう時、ESIはILIが自分に対して親近感を持ち続けていることをはっきり理解しています。ILIはESIに軽い求愛をし続けるかもしれません。ESIの注意を引こうとしたり、会う理由を見つけたり、ふざけてからかったりしながら、再び好意を示そうとするかもしれません。ESIはILIに遠慮することはありませんが、それでもESIは以前よりも疑り深くなり、もっと距離を置こうとするかもしれません。ILIはそんなESIのよそよそしさと冷たさを感じて、感情的な不快感を抱き(ILIの脆弱機能はFeです)、ESIをなだめようとします。ILIはESIに期待を持たせるヒントを投げかけ、軽く後押ししながらイニシアチブを取るよう促し、再び勇気づけようとするのです。
二人の関係がより安定し、前向きな発展の軌道に乗ると、ESIは再び活発になり、感情やエネルギーを解放し始めます。ESIの感情が抑えられていた時間が長ければ長いほど、ESIの感情的な発散は強くなります。これは特にILIにとって負担になってしまいます。なぜならILIは感情の扱いが不得手で、感情を処理したり耐えたりするのが難しいからです。ESIの愛が負担にならないのは、ESIの双対であるLIEだけです。LIEはその性質上、ESIから一定の距離を保ちますが、この距離感があるからこそ、LIEはESIが示すような愛を必要としています。通常、ILIにはLIEのような冒険心はなく、内向的なILIはむしろ家にいるのを好みます。そのため、ESIのような情熱的なパートナーと密接に関わり、コミュニケーション中に感情が高まっていくと、ILIは感情的に圧倒されてしまいます。
この関係は、同じ道を辿りながらさらに発展していきます。ESIの活動が一定の段階に達すると、再びILIは徐々にESIのペースを抑え、冷静にさせ、二人の間に障壁を築き始めます。ILIがこうした障壁を作るのは、ESIがそれを乗り越えることを期待しているからです。しかし、ESIはそれに気づかず、目標から退いてしまいます。障壁を何度も乗り越えるという行為は、ESIのやり方でも目標でもありません。ESIは征服者 [7]になりたくないのです。ESIの目標は、調和のとれた安定した関係を築くことです。もし、明らかに互いが相手を切望しているにもかかわらずそれが実現しないのであれば、ESIは「相互の愛がなかった」と判断し、身を引くべきだと考えます。ESIは基本的に強制や「征服」をするタイプではありません。しかし、ILIは再びESIに期待を持たせ、さらにはESIがある種の強硬手段に出るよう挑発するため、ESIが完全に離れてしまうことはありません。
この関係が深まるにつれて、ESIとILIは互いの双対タイプに似た特徴やサブタイプを示し始めます。ESIは徐々にSEEのようなサブタイプへと変化していきます。例えば、ILIの前で突然、自分の資質やパフォーマンスを他人と比較し始めます。徐々にILIは、ESIが自分にふさわしい人物だ、少なくとももっとよく見極める価値がある人物だと確信するようになります。ある時点で、ILIは防御を解いて、非常に率直かつ明確に、ESIに再び行動を促します。ここで二人の目標が一致し、ESIが最終的に「攻撃」を決意し、ILIがそれを容認した場合、二人の関係は前向きな方向に進む可能性があります。しかし、ILIが最後の瞬間に「窓から飛び出す」誘惑に抵抗できるかどうかは決してわかりません [8]。
また、ESIが慎重である理由は、過去の失敗や苦い経験、悲しい出来事をよく覚えているからだということも考慮する必要があります。ESIがためらい始め、慎重さを見せると、それがすぐにILIに伝わり、ILIは「最後の段階」で障壁を作り始めます。ESIはそれに憤慨し、激怒し、最終的にILIのもとを去ってしまいます。
この関係がさらに進むと、ILIとESIは「役割」を交換することさえあります。今やILIの過大な要求から身を守っているのは、機嫌を損ねたESIの方です。この段階まで進むと、これ以上距離が縮まることはまずありません。ESIはようやく自分にとって不自然な行動を強いられていること、ひとたび防御を解けばすぐにILIのイニシアチブが消滅することを理解し始めます。また、ESIはこうした障壁の構築と克服に一生耐えることはできないことも理解します。ESIはシンプルで調和のとれた理性的な関係を切望していますが、ILIのような人とそうした関係を築くことは不可能だと感じます。こうした結論に達したESIはILIから離れ、ILIのすべてのアプローチに対して冷たく決然とした拒絶を示します。この時の拒絶には、これまでのILIの行動や行為に関する倫理的な非難や反論が伴います。古典文学の例を見れば、これがよくわかります。
「オネーギン、あの頃の私は今よりも若く、もっと素直な人間だったと思います。そしてあなたを愛していたのに、あなたの心にはただ厳しさしかありませんでした」
あるいは、ILIの倫理的矛盾に対して
「あの頃、社交界の喧騒から離れた辺境の地で、あなたには私が魅力的に見えなかったのでしょう。それなのに、どうして今になって私を追いかけようとするのですか?なぜこれほど私に関わろうとするのですか?」
この最後の質問は非常にESI的です。ここでは、関係の倫理的な解体と分析が行われています。もちろん、ESI自身は意識的にILIを批判したり非難したりしているわけではありません。結局のところ、こうした欠点を探す行為は、タチヤーナ(ESI)自身が認めるように非倫理的なものです:「でも、私はあなた(オネーギン)を責めていません。あの恐ろしい瞬間、あなたは立派に振る舞いました」。
ILIとESIの関係は、アオサギと鶴の物語 [9]を彷彿とさせます。これは2つのプログラム機能(主導機能)の側面、つまり「時間の直観(Ni)」の非合理的な側面と、「関係性の倫理(Fi)」の合理的な側面の不一致によって説明可能です。一方が和解しようとすると、もう一方は不快になります。まるでジョークのような話です:「彼女が求めたとき彼は求めず、彼が求めたとき彼女は求めなかった。そして、両方が求めたときには、もう劇は終わって幕が下りていた」。
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訳注
- ^ つまり関係性の倫理Fiが、「高次元性」かつ「尊重」であるSEE、ESI、IEE、EIIの4タイプのこと。
- ^ プログラム機能:別名で第1機能、主導機能、先導機能とも。
- ^ 倫理的プログラム:ESIの主導機能Fi。
- ^ ESIの創造的な感覚機能:ESIの創造機能である意志の感覚Seのこと。
- ^ ESIの創造的な意志の感覚:ESIの創造機能Seのこと。
- ^ タチヤーナ・ラリーナとエヴゲーニイ・オネーギン:プーシキンの韻文小説「エヴゲーニイ・オネーギン」の登場人物。Stratiyevskayaはエヴゲーニイ・オネーギンをILI、タチヤーナをESIと解釈している。エヴゲーニイ・オネーギン5章31節にて、タチヤーナはオネーギンに一目ぼれをし、オネーギンに恋文を送るが、オネーギンは最初それを拒絶する。関連記事「ガンマ・クアドラ (7) by Stratiyevskaya」「ILI(INTp)by Stratiyevskaya」
- ^ 征服者:ナポレオンというニックネームで呼ばれるSEEのこと。ILIの双対はSEE。
- ^ 「窓から飛び出す」:この一節はニコライ・ゴーゴリの戯曲「Женитьба(結婚)」の結末から引用したもの。そろそろ結婚したいと思っているものの、ずっと煮え切らない態度を続けるイワン・ポドコリョーシンという男が、お節介な友人の計らいで本当に結婚することになる。しかし結婚式の直前に気が変わって結婚が嫌になったポドコリョーシンは、こっそり窓から飛び出して逃げ去ってしまうという話。
- ^ ロシア民話「Цапля и журавль(アオサギと鶴)」のこと。ある日、一人ぼっちで生きるのが嫌になった鶴が、アオサギに求婚をする。求婚されたアオサギは最初それを拒否するが、その後、アオサギが「やっぱり一人ぼっちで生きているよりは、鶴と一緒に暮らすほうがよかった」と思い直し、鶴の元に行き、「やっぱり結婚してください」と求婚する。しかし今度は、その求婚を受けた鶴のほうが「お前なんかと結婚したくない。出ていけ」と拒絶する。さらにしばらくしてから鶴は「やっぱり一人でいるのは嫌だ」と思って再びアオサギの元に出向く。こうして求婚と拒絶を交互に繰り返しながらも、ずっと結婚できないままでいるという内容の民話。この民話はタチヤーナ(ESI)の求婚を拒絶するオネーギン(ILI)と、その後タチヤーナに求婚するものの、今度はタチヤーナから拒絶されるオネーギンの話に類似している。