自己防衛のためのゲーム
エリック・バーンによれば、「サンドケーキ・ゲーム」の根底にある動機は「自分を肯定し、自分の優位性を高めるために、他人を貶めたい」、つまり相手の「低劣さ」を指摘することよって、自分の優位性を高めたいという欲求です。[1]
これには多くのバリエーションがあります。依頼や命令によって相手に嫌な仕事を押し付け、相手に「恥をかかせる」ことも可能です。汚い仕事をさせたり、屈辱的な行為をさせたり、見栄えの悪い行為をさせることもあります。
これは、相手のみっともない言動を通して、自分が優位に立つために行われます。つまり、相手の屈辱的行為が露呈したタイミングで「なんと卑しいことをしたんだ」と攻撃するために行われます。このゲームの仕掛け人は、自分が下した屈辱的な要求や命令を遂行しようとした相手が、鼻で地面を掘り返そうとした瞬間を狙って、このような非難をしかけるのです。(**)
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(**)ここで登場する「サンドケーキ・ゲーム」とは、アメリカの精神科医であり、精神分析医でもあるエリック・バーンが、チャールズ・ディケンズの小説「大いなる遺産」に登場するとある少女と少年の間で行われた社会的取引ゲームから引用したものです。
この小説に登場する気まぐれで我儘な少女は、少年に「私のために砂でケーキを作って」と要求します。
少年は少女の願いを聞き入れて、砂でケーキを作って見せるのですが、それに対して少女は「手が汚い!」「手どころか、頭の先から足の先まで汚すぎ!」といって少年を貶します。
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以前の記事で紹介したIEEと最初の夫で起こった出来事も、このサンドケーキ・ゲームと同じ類のものです。この例では、IEEの物質的欲求を満たすために、夫は大学を中退して働き始め、家族を経済的に養いましたが、それに対してIEEは夫の行動を「低劣なもの」として批判し、離婚しました。
最初、夫が懸命に働き始めると、彼女は「家族への配慮が足りない」といって即座に彼を叱責し、次に彼が家族と仕事を両立させようと努力し始めると、「学業成績が悪い」と非難しました。大学から届いた成績表を見た彼女は「精神的にも知的に遅れてる」と言い始めたのです。
そんな彼女に不満を募らせた夫は、必死に彼女の冷静さを取り戻そうとしました。しかしそれに対して彼女は「私の夫は感情的過ぎる。自分で自分の機嫌を取ることも出来ない」と非難し「結局この人は低レベルな労働しかできない、つまらない人間だ」と言って彼に屈辱を与えました。
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- どんな犠牲を払っても優位性を得たいという欲求、精神的に有利な立場や、自分の都合のよさの追求、自分にとって快適な価値観と優先順位が主流になるようにしたいという欲求。
- 呆れるほど単純で洗練されていない方法をゴリ押ししてでも、コミュニケーションで優位に立ちたいという欲求。
- 自分が屈辱を受けないようにするために、相手に屈辱を与えたいという欲求。
- 相手を弱体化し、危険で消耗を避けられない競争に引きずり込み、道徳的・社会的に有意な立場から相手に屈辱を与えたいという欲求。
- 横柄さ、高慢さを駆使して、他者に課せられる要求レベルを引き上げ、容赦のない精神的恐怖で自分が優位となる領域を拡大すること。
こういったすべての欲求が、デルタ・クアドラ・コンプレックスの下には存在します。これらは非常に一般的な心理的防衛の形です。表面的には子供らしい純真で無邪気なものでありながら、その実、しばしば非常に卑劣で腹立たしい、偽善的で高尚ぶったサンドケーキ・ゲームの様相を呈することがあります。
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「酸っぱいブドウ」というゲーム(エリック・バーン)
創造的な活動やアイデア競争が熾烈なデルタ・クアドラでは、ライバルの創造的なイニシアチブを抑制しようとする言動が広く見られます。デルタ・クアドラは「ライバルの創造的な熱意を冷ましたい」「批判的な発言をして相手を引きずり下ろしたい」という衝動に駆りたてられています。
その影響で、状況はかなり奇妙な様相を呈します。つまり、一方では皆がお互いを賞賛しながら、もう一方では互いを批判し、噛みつき合うという状況になるのです。
ここでは、批判も賞賛も興味なさげに受け流し、ファンを遠ざけて、自己中心的な「アドバイザー」の圧力に屈しないでいられる人が勝者になります。
ここでデルタ・クアドラを支えているのは「酸っぱいブドウのゲーム」です。
つまり彼らは心理的防衛のために、「自分にあまり高い要求をせず、最大の結果を出すために必要なリスクを回避してしまう」という立場を選びます。これはデルタ・クアドラ・コンプレックスに対する心理的防衛の一形態として、次のような形で表れます。
- 社会的、職業的地位の向上を二の次にして、自分の能力を最大限に発揮して生きようとすること。
- 自分にやりやすい手段とペースで目標を達成するために、他者にも「リスクを取ること」、すなわち「これまでに蓄積してきた利益、発展、リソースの損失を伴う危険な競争やレースに参加すること」を許さないこと。「ゆっくりと、着実にレースに勝つ」スタンス。
- 「架空の成果」と「自分」を紐づけることで、高い自尊心を維持しようとすること。
このように色々な形でコンプレックスに対する防衛が表れますが、その基本は童話「酸っぱいブドウ」に登場するキツネのように振舞うという点に集約されます。幻想の世界で、妄想じみた「素晴らしい自己像」を守りたいという願望がそこにはあります。そして意識的な謙虚さを(自分自身を含む)全ての人に納得させたいのです。
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「やろうとさえ思えば、私には色々なことが出来ます」
「でもそれをしないのは、やりたくないからなんです」
この手の発言には、他にも様々なバリエーションがあります。
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「一般人の前では競争したくない」
「他の人から条件、状況、タスク、目標、計画を押しつけられるのが嫌なだけ」
「熱狂的なファンとか、批評家の意見に振り回されたくないんだよね」
こういった「他人に翼をもぎ取られないようにするために、自分でもぎ取ってしまう」というスタンスは、「酸っぱいブドウ」のゲームのバリエーションの一つだと解釈できます。これは二分法「貴族主義」のデルタ・クアドラには一般的に見られる行動です。
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「酸っぱいブドウ」のゲームに興じるデルタ・クアドラは「自分自身の成功に満足しており、かつ、他人には非常に厳しい」という立場に立とうとします(相手の発言をわざと曲解したり、発言の意味や形式の粗探しをして、相手を邪魔し、後退させ、切り捨てようとします。そのせいで相手は何も発言できなくなってしまうほどです)。
デルタ・クアドラの他人に対する要求は、時に「慈悲深いメンター」という(デルタ・クアドラにとって)都合のいい形態をとります。この「メンター」を演じる彼らは、現実的な理由、または空想上の理由から自分自身には要求しないことを、「純粋な善意から」他の人には要求します。
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「あなたは最大限、効果的・効率的な方法で自分の潜在能力を鍛えるべきです。そして全ての人の利益と喜びになるような高い目標を掲げて、そのために努力するべきです」
と要求するのです。
この背景には、そうやって「メンターとして自分が面倒を見てあげた人」が急速に成長して成功すれば、自分の小さすぎる成果を正当化できると感じているからという理由があります。
彼らにとってメンターとは、「あらゆる状況下で、『ほどほどの立場』に留まり続けることが出来る存在」です。メンターという立ち位置にいれば、自分自身には過大な要求をしなくても済みますし、「今現在の、ほどほどの自分」以上の自分になる必要もありません。
こうした「ほどほどの立場」を好む最大の理由は、「自分の優位性」を崩したくないからです。自分の弱さ(自分の能力や成果の凡庸さ)を自覚している彼らは、競争への不参加によって、このような事態が生じるリスクから逃れようとします。無理に「突出」せず、「優位性」を守り、他者から批判・批評(正しいか間違っているのかという批判や、自発的か否かという批判、計画性があるかないかという批判)されないようにしたいという意識があるのです。
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「私はあるがままの状態を無理矢理変えようとは思いません。他の人のものを欲しがったり、他の人の賞品を奪ったりもしません。そのかわり、私は『他の人から判断される側の立場』にも立ちたくありません」
その結果、「あえて凡庸な立場でいること」に説得力が生まれます。そしてそこからあらゆる基盤と動機を持ちだしたり、考慮するのが「遅すぎた」(あるいは単に「気が進まなかった」)ささやかな要望や機会に言及することも出来ます。
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この「酸っぱいブドウのキツネ」のバリエーションには、「犠牲者」バージョンもあります。
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「私は自分ではなく『才能のある人』が幸せになってほしいのです。私のような者に、一体何が期待できるというのでしょうか。全てが既に決まっているのですから、いつも通り、このままにしておくのが一番です」
「ひけらかすような謙虚さ」「欲望の節制」、自分の限界の自覚。
これらは熾烈な競争を避けて、低コストで都合のいいニッチを占める際に有益であるため、デルタ・クアドラには一般的にみられることです。これは至る所で表れます。
「謙虚さ」をひけらかすのは、デルタ・クアドラ・コンプレックス(別名、もぎ取られた翼コンプレックス)からの防衛という意味でもかなり役立ちます。
翼を広げて高く飛翔するのではなく、息をひそめてシェルターに隠れていれば、撃ち落されるリスクを下げることが出来ます。そのため彼らは静かにゲームから離脱して、他の人にリスクを肩代わりさせます。
シェルターに籠っていたら、翼は無用の長物になるかもしれませんが、それも問題ありません。人が人に進化する以前からやっていたのと同じように、新たな環境に合わせて上手く適応することでしょう。
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自分には要求しない一方で、他人には極端な要求をする「説得力ある凡庸な人」(上述した、「あえて凡庸な立場でいること」を選んだ人)というポジションを、デルタ・クアドラの中でも特に好むタイプはSLIです。
SLIは、他人からの批評や批判を嫌います。
プライドや自尊心を打ち砕かれ、自分の野心的な計画を断念させられ、嘲笑され、破壊され、優位な立場から転落し、個人的・職業的失敗によって恥をかかされることを、そしてその醜態を自分の目に(そして自分を信じてくれた全ての人の目に)晒すことを恐れているからです。
批判(特に専門外の人間から投げかけられる愚かで馬鹿げた批判)は、クアドラ・コンプレックスを刺激し、自分の能力・長所・能力に対する自信を失わせることに繋がります。
SLIが自力でこの自己疑念を克服するのは、かなり難しいことです。SLIは暗示機能(第5機能)に+Ne [2] を持っており、二分法では「質問」「内向性」「貴族主義」となるタイプですが、SLIの+Neは、痛々しいまでに豊かな想像力として表れやすいです。
「酸っぱいブドウのキツネ」を演じることは、到達困難な高みに挑むことを拒否するデモンストレーションだと言えます。このデモンストレーションは、創造的エネルギーの消費量を適度な範囲内に抑え、快適に実現できるレベル(つまり平凡なレベル)で「飛行を続ける」には有用です。
SLIは、自分の潜在的な可能性(自分の創造的な願望、成果、計画)に対する批判を非常に恐れています。この恐れが強すぎる場合、IEEとの双対関係が上手く形成されないこともあります。
IEEは失敗した人、絶望的な人、いわゆる「敗者」を軽蔑します。それと同時にIEEは「お気に入りの人物」や「今日のお気に入り」に対して潜在的な可能性の直観(Ne)に関する前向きな予測を話し、「自分自身を信じる」ように働きかけるタイプです。
SLIの可能性の直観Neは暗示機能(第5機能)の位置にあるため、IEEが与えるような励ましを必要としていることは確かですが、SLIが本当の意味で自分の成功を感じられるのは、少なくとも規範的な成功 [3] を成し遂げた場合に限ります。
そのため、SLIはライバルの「翼を切り」、論争中に自分を批判する人や自分に反対する人を「切り崩して」、ライバルや批判者たちの目をごまかし、現実と空想の両面から自尊心を肥大化させる必要性を抱えています。そしてその必要性に囚われたSLIは、到達困難な高い目標どころか、現実的で達成可能な目標に挑むことすら拒否し始めます。
もしもこの時、SLIから見て「自分にふさわしくない」と感じるような目的や目標を押し付ける、頑固で愚かで野心的なファンに絡まれたとしても、「酸っぱいブドウのキツネ」のゲームのおかげで、SLIは快適な「控え目で穏健な立場」にしがみ続けることができます。
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デルタ・クアドラに属するタイプの人々の多くは、このような手段(節度ある態度)に頼って心理的防衛を行います(例外はLSEだけです)。
LSEで最優先されるのは+Teです。LSEにとって、野心的で創造的な計画、卓越性、高品質の仕事、可能性の限界を広げることへの情熱(つまり+Te)は、多くの場合「自分が生きる意味」そのものです。
とはいえLSEのこのような特徴も、場合によっては「破壊」されることもあります。それは双対であるEIIが「節度ある自尊心」の大切さや、「目立たないようにしていること」「群衆から突出しないこと」「他人から嫉妬されないようにすること」の有益さをLSEに教え説いた場合です。