コンプレックスの防衛策の展開:「虚栄心の見本市」での自分の成功のデモンストレーション
デルタ・クアドラにとって、目立たないようにしていることは、自己実現にとって最良の方法とは言えません。
デルタ・クアドラ(+Te↑, -Ne↑)[1]ではビジネスの競争やイニシアチブ獲得競争が激しいため、各人は最も鮮烈で人々の記憶に残るような方法で、自分の創造的な個性を表現できるよう努めています。
誰もが自分の能力と才能を発揮する機会を探し、世間の注目の的となることを目指して、我先にと並外れた方法で自分自身を表現しようとしています。
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デルタ・クアドラの世界における1分間の名声は、非常に価値があるものです。そのために必要なコストは度外視されています。重要なことは、成功や成果が見過ごされたり、過小評価されたりすることなく、才能が地面に埋もれないことです。だからこそ、意義のあるもの(あるいは価値のあるもの)は、ここでは全て誇示してアピールされます。「ショーウィンドウに並ぶこと」、有名人になること、成功のモデルになること、これ以上名誉なことがあるでしょうか。
「社会から認知されて人気を得ること」「創造と政治の中心・頂点で自分の影響力を確保し、できるだけ長くそれを維持すること」「言葉と行動で、人類の魂と心に影響を与えることを学び、幸せで明るい未来へと導くこと」、こういったことは、デルタ・クアドラにおいて最も名誉ある仕事であり目標でもあります。
高い自尊心や、自分自身の考え・信念を重視する傾向。デルタ・クアドラは高いレベルでこういった資質を持ち合わせていますが、これは彼らが創造的な活動の分野において、野心的な願望に従って、名声の頂点に立つために必要不可欠な資質です。
こうした背景から、デルタ・クアドラの人々は、最も有利な方法で自分をアピールし、可能な限り最高の印象を与えることによって、自分のことを「困難な時に頼れる人」「信頼できる人」「賭けるに値する人」「あっさり素早く成功しそうな人」として見せようと努めています。
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成功にまつわる興奮のために、しばしばデルタ・クアドラにおける多くの試みは、「ビッグレース」、「格調高いレース」のような形態をとり始めることがあります。この「虚栄心の見本市」的な「格調高いオークション」で、参加者それぞれは、自分自身を「自分の成功と卓越性を反映する、貴重な商品」として展示します。そして個人の優位性の観点から周囲の他の人々を評価します。
野心と野心の戦いは、しばしば「虚栄心の見本市」のようになりがちです。尊大さと上流階級ぶった俗物的な態度がこの見本市の主力商品であり、常連客の特徴でもあります。名声はすべての価値観の普遍的な尺度です。
一流の結婚、一流の仕事、一流の知人の輪。これは、この見本市での「商品価格の向上」を助け、エリート世界への関与を感じるのに役立ちます。大切なのは、自分自身で自分の翼をもぎ取らないこと、すなわち自分の能力に自信を失わないことです。たとえそれが不安定で一時的なものであっても、目標を設定し、それを道しるべにして、新たな成功の地平を目指して努力することが大切なのです。
高みに立つほどに、人は近づけなくなります。成功と成果が多ければ多いほど、自分への自信が高まります。そして自分を守ることが出来るという感覚が強化されていきます。デルタ・クアドラは自分が高く舞い上がるために、他の任意の誰かの翼を、「思いやりと権威」というツールによって、もぎ取ることができます。
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ただし、ここで一つ問題があります。それは、「虚栄心の見本市」ではアイドルが頻繁に入れ変わることです。デルタ・クアドラの貴族社会の「開かれた扉」は、気まぐれな趣味や関心の変化で満ちています。新しいトレンドと新しい「有名人」が絶えず参加してきて、前任者を押し出します。押し出されてしまった過去のアイドルは、この楽しい世界を去り、以前のような灰色の、楽しみのない仕事に戻らざるを得なくなります。
幻想的で煌びやかな世界から、過酷な現実世界に戻ることは、空から地面に落ちるのと同じです。落下したのと同じ痛み、同じ傷、同じ欲求不満のショックがあります。突然冷水を掛けられて、魔法の夢から目醒めさせられるようなものです。
「現実の厳しさの中に身を置きたくない」「上に立ちたい」「飛び立ちたい」「何としても失ったものを取り戻したい」と願って、押し出された昔のアイドルは、かつて自分が活躍した場、開かれた貴族社会、かつてのファンのもとに何度も足を運び、彼らの関心とサポートを得ようとします。
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機会均等社会(社会主義社会)では、あらゆるレベルの願望が平均化され、誰もが自分の目標を、他人を不快にさせないようにしながら、最も受け入れられやすい、適合的な方法で実現しようとします。
そのためデルタ・クアドラの「見本市」における行動は、一種の内向的な性格を帯びています(SLIの優位性)。「驚きに満ちた宝箱」「神秘的で謎めいた人」として自分を提示しようとします。彼らは、自分のために、自分自身を「謎」のままにしようとします。
1960年代の控え目な知識人社会という狭いサークルの中で評価されている物理学者、作詞家たちは、野心や予測不可能なことを悪趣味とみなして抑圧していました。
内面的な充実や、自分自身の精神世界を深めることが、知的エリートの「虚栄心の見本市」で流行しました。そこに参加する人々は皆、まるで古代エジプトの芸術品のコレクション、謎めいたスフィンクスのようになっていました。無限を見つめる謎めいた視線、多義的な謎めいた微笑み、現実世界からかけ離れた独自の世界への遊離と孤立が、彼らをスフィンクスじみたものにしていました。
集会では、各自が「不思議なほどに」沈黙を保ったり、あるいは自分のことを話したりして、創造的な計画や興味の実現からはほど遠い、ファンタジーに満ちた超越的な世界にどんどん入りこんでいきました。誰も彼らの飛行を邪魔することは無く、誰も強制的に追い出そうともせず、誰も翼をもぎ取ろうとしない世界です。
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この種の「虚栄心の見本市」の印象的なエピソードは、ソビエト時代のいくつかの映画で見かけることが出来ます。
たとえば、マルレン・フツィエフ監督の映画「七月の雨」(1960年ころの若者をテーマにした映画)には、それぞれが自分の好意的な印象を与えようとして、独自の方法で自分自身を主張する若者グループの話が登場します。そこでは、誰もが自分の趣味や興味について話します。クロスワードパズルを解いて見せたり、新しい知人に心理テストを試したり、自分の博学さを誇示しようとして、政策の問題について言及したり、抽象的なトピックについて話したりします。そして同時に、誰もが互いの話に耳を傾けず、誰もが退屈な顔で、遠く離れた宇宙を眺めています。唯一共通しているのは「完全な断絶感」です。どこか互いに辟易し合っているような世界です。
別の世界、別の現実(-Si↑)、別の可能性(-Ni↑)、手つかずの創造的イニシアチブの領域へ逃避したいという願望は、デルタ・クアドラ・コンプレックス(通称「もぎ取られた翼」コンプレックス)の特徴的な現れ方です。賢明な「フェニックス」は、まだ灰の中から復活しておらず、眠ったままですが、それでも創造的な可能性を維持しています。そしてこれがデルタ・クアドラにとって大切なことです。
こうした「虚栄心の見本市」の例として、他にキラ・ムラートワ監督の映画「パッションズ」(停滞の時代における、創造的な若者についての映画。1994年)をあげることも出来ます。
ここでは、ただ自分の情熱と趣味について話すためだけに交流する若者たちが登場します。それぞれの若者が自分の独り言をより面白いものにしようとして、自分の興味のある分野の深い知識を披露しますが、この映画でも「七月の雨」と同様、誰も他人の話をまともに聞いていません。他人の話はただ耳を素通りするだけです。まるで誰もが「どこか遠くを見ている狂人」のようです。周りのことなど何も目に入っておらず、ただ自分自身について、そして自分にとって興味深い事についてだけ延々話し続けています。
創造的な潜在能力を維持することを目的としたライフスタイル、つまり居心地の良い家庭的な世界の温室的な条件で潜在能力を成熟させながら、より良い時代を待つ「才能の温室」的なライフスタイルは、「もぎ取られた翼」コンプレックスの特徴的な現れだと言えます。多くの場合、ホーム・レクリエーションとして、彼らは地域の「見本市」で自らの創造性の成果を披露します。
映画「Dnevnoy Poezd」には、こうした世界におけるデルタ・クアドラの典型的な態度が登場します。
この映画の主人公であるヴァレンティン・グラフタ(ILI、ガンマ・クアドラ)は、以前勤めていた研究所の友人(デルタ・クアドラ)と数時間コミュニケーションを取りました。その際、主人公の友人は、主人公に対して、デルタ・クアドラ的なホーム・レクリエーション、すなわち、自分の個人的・職業的・社会的な業績の「デモンストレーション・パフォーマンス」を披露しました。彼ら(デルタ・クアドラ)の創造的成功・趣味・発明の物語をうんざりするほど聞かされた主人公(ILI、ガンマ・クアドラ)は、次第にまるで自分が無才で希望のない敗者のように感じてしまい、最終的にはイライラが爆発して、この友人との関係を断ち切ってしまいました。
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─ ここまでの話を聞いて、ホーム・レクリエーションとなりうる活動、例えば伝統的でありながら、最近の人も楽しんでいるようなホーム・コンサートの何がいけないのかと疑問に思う読者がいるかもしれません。また、最高の吟遊詩人、作家、パフォーマーを生み出した詩作のホームクラブであったり、家庭内ディベート大会や、夜の文学朗読会などといったホームクラブ的な活動はどうなんだろうと気になるかもしれません。
─ 仮にパフォーマーが非常にプロフェッショナルで洗練していたとしても、その活動がクアドラ・コンプレックス由来の物でなく、パフォーマーと観客の間に必然的に生じる緊張感がないのであれば、すべて素晴らしい活動だと言えます。
例えば、子供が親の野心の人質となり、親の俗物精神の犠牲者になる「次の若い世代」の育成という伝統には一体どんな価値があるというのでしょうか。
そこでは、子供は彼ら自身の意思に反して、要求、涙、懇願にもかかわらず、この目的のために特別に音楽を強制的に教え込まれます。子供はホームコンサートに引きずり込まれ、親から次のように言い聞かせられます。
「もっと大きくなって、社交界に行ったら、他の人はあなたが音楽の勉強をしていたことを思い出して『何かピアノで演奏してほしい』と言うかもしれません。でも今ちゃんと練習していなかったら、その時あなたは何も弾くことが出来ずに、恥ずかしくて気まずい思いをすることになるでしょう。だから、そうならないために音楽の勉強をしないといけません」
親自身はもっと高くて野心的な目標を掲げていますが、子供はもっと日常的で小さな野心的目標、例えば遊びに行きたい・注目を浴びたい・他の人より目立ちたいと言ったささやかな望みや野望に目を向けながら、訓練させられることになります。
子供は最初、必死に抵抗したり、意義を唱えたり、親と議論しようとしたり、「昔、音楽の勉強をしていた」なんて言わないから大丈夫だと言ったりしますが、次第に親の要求に対して従順になっていきます。
数年間音楽を練習し続けた子供は、ホームコンサートや学校のアマチュア公演で演奏することで、さらなる経験を積んでいます。また、もしもパーティ会場にピアノがない場合に備えて、ギターの練習をすることにもなります。
やがて、そうして育った子供は、自分でレパートリーを用意して、ギターだけを持ってパーティに訪問するようになります。夜の集まりのたびに、他人からのリクエストに応じて弾いたり歌ったりするのが習慣になり、まるで自分の存在をアピールするかのように、「お客さん、何が聴きたいですか」という原則に従って、無料で演奏会をするようになっていきます。
そして、彼は間違いなく厄介で屈辱的な状況に陥ります。ここで最も重要なことは、幼少期に両親から教え込まれたプログラム、すなわち「家族の集まりや訪問先で、自分の能力や才能を発揮しなければならない」という両親の教えに彼は依存しているということ、そして自分の能力や才能を実際に発揮する準備が整っているということです。
これを「虚栄心の見本市」のための「商品」を準備する行為だと言わずして、何というべきなのでしょうか。
訳注
- ^ 機能についているプラスはエボリューション的(建築的・肯定的)、マイナスはインボリューション的(再構築的・否定的)という意味。関連記事「ソシオニクス デルタ・クアドラ (1)」