デルタ・クアドラの高い要求
デルタ・クアドラの中で、最高峰に立つようなヒーロー、あるいはスペシャリストになることは、とても尊敬に値することです。しかしさらに尊敬されるのは、可能性の限界を超えて、精神的なヒーラー、奇跡の労働者、預言者、超能力者、聖者になることです。
デルタ・クアドラの基準と要求は日に日に高くなっていきます。昨日は「可能性の限界を超えた偉業」だと見なされていたことも、今日は「できて当たり前のこと」になってしまいます。
この野心的な要求のために、デルタ・クアドラの目には、ある日の最高のヒロイズムとプロフェッショナリズムですら曇って見えてしまいます。
デルタ・クアドラ自身の過去の業績だけでなく、他のクアドラを含む全ての人々の過去の業績は、デルタ・クアドラからすると取るに足らないものに見えてしまいます。
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アルファ・クアドラを相手にした時のデルタ・クアドラは、率直に退屈しています。そこでは全てがおしゃべりで始まり、おしゃべりで終わりますが、アルファ・クアドラの語る成功はただの夢物語でしかありません。
ベータ・クアドラについては何も言うべき言葉がありません。ベータ・クアドラのコミュニティでは、誰も「さらなる高み」を、世俗的な権力よりも高潔なものを目指そうとはしません。その代わりに、誰もが自分の経歴に箔をつけ、少しでも多くの権力を握るのに夢中になっています。
ガンマ・クアドラは一般的に言って退屈な人々です。一体ガンマ・クアドラと何を話せばいいのでしょうか。ガンマ・クアドラの人々が興味を持っていることと言ったら、ひたすら仕事のことだけです。彼らの人生には仕事しかないのではないかと思えるほどです。
ではデルタ・クアドラはどうでしょうか。デルタ・クアドラのコミュニティにこそ、創造性のための真の世界があります。想像力は本当の意味で広がりを見せ、そこでは誰であれ著名人であり天才になります。ただのホームレスでさえ、放浪の哲学者であり、知恵の宝庫であり、才能の深淵なのです。そこでは本当の意味で生きている人が、本当の社会を築いています。ここに光があるのです!
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デルタ・クアドラが、他のクアドラと共に暮らすのは困難です。デルタ・クアドラの要求が高すぎるため、彼らを喜ばせることが難しすぎるからです。
デルタ・クアドラと最も合わないクアドラは、ベータ・クアドラです(ちょうどベータ・クアドラはデルタ・クアドラの反対のクアドラです)[1]。自我だけではとてもやっていけません。
ベータ・クアドラは、デルタ・クアドラを仮想現実の中に羽ばたかせるのではなく、「弱者」として地上に引きずり落とし、「犠牲者」として修道院に押し込めてしまいます。
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そしてデルタ・クアドラ同士の関係もまた、必ずしも容易ではありません。
彼らは互いに高い野心的なアイデアを背景にして自分を表現しようとするため、同じプロジェクトや計画に取り組んだ場合、激しすぎる競争が生じてしまう可能性があります。
片方のデルタ・クアドラが声を出し、もう片方のデルタ・クアドラも声を出します。
そうやって両者が自己主張した後は、30分ほどお互いを尊重して、互いの言葉が行動に移されるのを、つまり奇跡が起こるのを待ちます(奇跡が起こらなくても問題ありません。彼らはいつでも事実を「変えてしまう」ことができます。つまり、奇跡はすでにどこかで起こっていて、誰かがそれを目撃しており、その奇跡の恩恵を受けて「良いアドバイスと奇跡のような救済をありがとうございます」と感謝していた、と証言することができます)。
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他の「客観主義者」(あるいは実用主義者)と同様に、デルタ・クアドラはブラフ、神秘化、自己価値の向上の達人です。
このクアドラのリーダーは「宣言的」「幼児的」に分類される直観的な倫理タイプ(IEE、EII)です。
彼らは紳士ぶって上流階級を気取ることで自己保身を図ります。自分の正当性と自分の高い目標の素晴らしさを確信しており、善を意図している限り、どんな手段でも正当化できると信じている倫理主義者(倫理タイプ)です。
この「奇跡の騙り屋(IEE、EII)」に取り巻きがいない場合、つまり、自分を守るための神秘的な光輪を身にまとったり、奇跡を演出する技術を何も編み出していない場合、彼らの背中を押してあげるべきです。
つまり彼らを聖者の台座から降ろし、きちんと地に足をつけさせ、彼らが本当にいるべき場所を理解させるべきです。
そして彼らが他に何も出来ないようであれば、普通の人と同じように大地を耕すよう促すべきです。
一方で、影響力のある友人がいたり、テレビ画面を通して何百万もの人々に影響力を及ぼせるデルタ・クアドラを止める方法はあるのでしょうか。
そして、こんなデルタ・クアドラ相手に、鋭い言葉の使いどころはあるのでしょうか。はい、あります。それこそが [2] が彼らの翼を切り裂くことになります。
デルタ・クアドラには十分な知恵があります。デルタ・クアドラは「賢明」タイプであるため、口が達者で、言葉に詰まったり、言い返せなくなったりすることはありません。
さらにデルタ・クアドラは「賢明」に合わせて「貴族主義」「客観主義」タイプでもあるため、言葉と行動によって立ち上がる方法をよく知っています。
つまり、自分の優位性を維持したり、(少なくとも状況では)優位なポジションに立ち続けたり、(たとえ一瞬で逆転してしまうかもしれないような儚いものであったとしても)実際に相手より勝っているという事実を活用して、自分の立場を(たとえ短期間であっても)守ることができます。
もし言葉という手段をとらなくても、デルタ・クアドラ(主に直観タイプであるIEE、EII)は、行動で同僚や潜在的な競合相手に勝利できます。
競合相手の同意なしに、競合相手の不利益になるような行為を、競合相手に変わって行います。
そうすることによって相手を、すぐには回復できないような屈辱的な立場に陥れ、あらゆる点で「ハメ」てしまいます。
また、彼ら自身は競合相手を巧妙に「ハメ」た者として「存在感」を高め、特権、利益、権利を得ます。
しかしデルタ・クアドラ、特に直観(倫理)タイプ(IEE、EII)は、やろうと思えば上記のような行為も出来るものの、見苦しい行為に手を染めることをあまり好みません。
見知らぬ人の前で(そして特に彼らが新しい高みに到達しようとした時に)自分の瑕疵を感じたり、屈辱を感じたりすることは、彼らにとって非常に恥ずかしいことです。
その「翼」に「傷」ができ、羽ばたくことも出来ずに台座から落ちてしまい、名誉を失い、他人に台座を譲らざるを得なくなることは、彼らを傷付けます。
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デルタ・クアドラにとって、自分の希望やアイデア、知的・精神的・創造的な計画の崩壊は痛烈に感じられることです。
高く舞い上がりすぎた者は、より激しい落下の苦しみを味わうことになります。この崩壊への恐れは「もぎ取られた翼」コンプレックスがもたらす一般的な症状です。
そこでデルタ・クアドラは、自分の堕天を「愛する」ことによって自己防衛しようとします(シェイクスピアのハムレットより、「悪徳の蒸気の中に横たわり、自分の没落を賞賛する」)。
つまり道徳的に退廃的なことをしながら、非難や侮蔑的な評価を上から目線で眺めることで、主観的には自分の道徳的優位性を主張しようとするのです。
これはデルタ・クアドラ・コンプレックスから身を守るための常套手段であり、性的な奔放さすら、ここでは非難されるべきものとは見なされません。
人を愛することの何がいけないというのでしょうか(-Ne↑; +Fi↑)[3]。
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以下はデルタ・クアドラにとって許しがたい事です。
- 自分の精神的、道徳的、専門的かつ創造的な自己改善と自己実現に対する権利に異議を唱えられること。
- 自分の道徳的、精神的、知的、専門的な優位性に挑戦を仕掛けられること。
デルタ・クアドラ(特に直観型、つまりIEE, EII)にとって、他人の知的、精神的、専門的、道徳的優位性を目にするのは苦痛です。それらの優位性が、他人に真の成功と利点をもたらすものであるほど、デルタ・クアドラはそれに泥を塗りたくて仕方なくなってしまいます。
他人の成功に対する羨望は、「もぎ取られた翼」デルタ・クアドラ・コンプレックスで最も一般的に見られる兆候の一つです。デルタ・クアドラ自身の個人的な成功体験が少なければ少ないほど、他人の成功に対する野心と羨望が膨れ上がってしまいます(結局のところ、これは個人的な喪失感に対する補償行為なのです)。
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以下もデルタ・クアドラにとって許しがたい事です。
- 自分の「創造的なアイデア、可能性、知的・精神的な潜在能力を、全面的かつ最大限に発揮する権利」に異議を唱えられること。
- 自分の「創造的な成功や計画、空想に(ささやかな)喜びを見出す権利」に異議を唱えられること。
- 「他人の成功に対する妬みを捨てて、自分の自尊心に打ち勝つこと」に対して、「それを成し遂げた自分自身に誇りを感じたり、喜んだりすること」を禁じられること。
デルタ・クアドラは、創造的な自己実現、自分探究、自己改善を続けます。そのためこのタイプの人々は、成熟した晩年を送ることが出来ます(そういった取り組みを妨げられない限り)。
デルタ・クアドラのモットーは、「最大の成功、チャンス、展望」 ─ 可能なこと、望んでいることのすべてを最大限に実現することです。
訳注
- ^ 尊重する機能、言い換えるとモデルAの第1,2,5,6機能は、ベータが+Fe, +Ti, -Se, -Niであるのに対し、デルタは+Te、+Fi、-Ne、-Siである。モデルAの自我ブロックにある第1,2機能だけでコミュニケーションを取ろうとしても、両者の価値観が違いすぎて話がかみ合わない。+はエボリューション的(建築的・肯定的)、-はインボリューション的(再構築的・否定的)という意味。
- ^ デルタがよく知らない人の目の前で、デルタに対して鋭い批判をして、デルタが犯した瑕疵を指摘すること。
- ^ Stratiyevskayaはエボリューション的を「建築的・肯定的」、インボリューション的を「再構築的・否定的」という意味で使用している。