クアドラ・コンプレックスの保護手段の開発 ~ 自分の可能性のフィールドの拡大
わざと他人から暴力を向けられるような状況を作り、その中で「被害者」という役割を演じることで、「他人の同情を誘いたい」という願望も、デルタ・クアドラ・コンプレックスの現れだと考えることができます。
公共の場で自由を感じられず、無邪気なイタズラや遊びの計画を邪魔されることは、デルタ・クアドラにとって個人の自由、個人の権利、機会(-Ne↑)[1]を制限されているのと同じことであり、それゆえにデルタ・クアドラ・コンプレックスを刺激することになります。
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デルタ・クアドラはふざけたり、イタズラするのが好きなクアドラですが、それと同時に、自分が不完全な存在であることは拒む人でもあります。
デルタ・クアドラは特にイタズラを好みます(アルファ・クアドラと同様に「子供っぽい」と言われるのは偶然ではありません)。
人は、あえて「許されないこと」を無視することで、自分を制限する規範の限界を恒常的に広げることができます。デルタ・クアドラは、この限界を広げるために、「冗談」や「遊び」として、規範を無視しているとは言えない程度の「無害ないたずら」をします。「ちょっとだけ」人をビックリさせたり、怒らせたり、困らせたりするようなイタズラです。
しかし、実験(自分に許される規範的な境界線を押し広げるような実験)が上手くいかなさそうな場合、デルタ・クアドラはどんな悪も「まるで善のように見せかけ」てしまうことがあります。罪のないイタズラ、面白い冗談、残酷な悪ふざけ、パロディのような「からかい」や「あざけり」など、これ以上無害なものがあるでしょうか?
デルタ・クアドラが好む、「おとぎ話を実現するために生まれてきた」というスローガンは、「可能性のフィールドを広げ、人間の可能性の限界(および、その限界の外の世界)」を、「誰かの犠牲によって」探ることを指しています。
しかし同時に、このスローガンにはデルタ・クアドラ・コンプレックスの影響もあります。ここで影響しているのは、ビジネスの論理(+Te↑)と代替可能性の直観 (-Ni↑) の側面の優位性、および「貴族主義」「客観主義」「賢明」です。
この問題への関心は、デルタ・クアドラの文学作品にも表れています。例えば、M・A・ブルガーコフ(LSE)の有名な作品(「犬の心臓」「運命の卵」)では、幻想的で大胆な実験に魅了された、禁じられた可能性の領域にいる人物が主題となっています。
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デルタ・クアドラは、さほど苦労せずに人を競争に引き込み、「魔法」にかけ、潤沢なアイデアで誘惑し、危険な実験のモルモットにすることができます。
例えばボランティアにできそうな、「太陽に向かって飛びたいと思っているイカロス」をすぐに見つけることなど、お手のものです(別のデルタ・クアドラや、それ以外のクアドラの中からイカロスを見つけ出せます)。
また、まるで「司令官や母親の命令」のように、有無を言わせない口調でモルモットになるよう誘導することもできます。
「リスクを取るならとことん取るべきだし、自分の限界を超えようとするならば、他の人より大きなスケールで、とことん本格的にやってみるべきだ」
デルタ・クアドラが自分の計画に執念を燃やし、諦めることなど考えもしないのは、「モルモットをすぐに調達する能力」に秀でているからです。
デルタ・クアドラは、自分の計画を「実行者」に執拗に押し付けます。そしてボランティアとして参加している人たちを「損失や損害なしに脱出することは、ほとんど不可能な未知の状況」に追い込みます(そうでなければ、わざわざ実験をする意味があるでしょうか)。
そして実験を実りあるものにするために、彼らはボランティアもといモルモットを自分の創造的・研究的探求の「軌道」に放り込んで、ボランティア(モルモット)の意志に反してそこに留めておこうとします(実験を途中で打ち切ってはいけません!)。結局のところ、誰かがリスクを負い、誰か、あるいは何かが犠牲になる必要があるのです。
特に目立ちたい時、有名になりたい時、人気者になりたい時、大衆にとって有益で興味深い未知の何かを通して自分をアピールしたり、自分の創造的可能性を発揮したい時には、こうやって実験する必要性がありまず。
こうしたデルタ・クアドラの実験には、「夢を諦めてはいけない」「計画や目標から目を背けてはいけない」と彼らが自分自身に課して、何がなんでも自己実現を果たそうと突き進むデルタ・クアドラ・コンプレックスの影響を垣間見ることができます。[2]
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限界を超えた持久力と作業能力、高度なコンプライアンス、謙虚さと優しさ、野蛮な原始人を高度な精神的存在に変える試み。こういった「人の枠を超える試み」を、デルタ・クアドラは非常に好みます(特に、並外れた結果を出すことができる場合。自分が奇跡の人、魔法使い、理想の体現者であると感じたくない人などいないに違いありません)。
野心が強く、良心や道徳心に欠けている場合、新しい奇跡を求めると、むしろ「奇跡を起こす人間」からは遠い人間になるという問題があります。
例えば、ある女性(IEE)は、「私は優れた民間療法士だ」と主張するために、生のジャガイモを「全ての薬に代わる万能薬」として自分の子供や孫に押し付け、その効果を試したのです(このIEEの女性は経験豊富な医師でありながら、こういった「実験」をしました)。
怪我をしたら消毒薬の代わりに、すりおろした生のジャガイモを綿棒で塗りました。彼女は家庭で何度もこの「治療」を試しましたが、結果はいつも同じでした。子供たちはいつも化膿で苦しみましたが、彼女は我慢するように言い聞かせました。
「痛みはすぐにひいて、元気になりますよ」
彼女は、子供の熱が上がって炎症がさらに悪化して初めて、診療所で手当てを受けさせていました(高熱が出た時は当直の外科医のところに行き、子供と並んで治療の順番を待ち、自分で医師と話をしていました)。
長年、彼女は自分の子供や孫に対して、交互にこの実験を行いました。子供たちは長い間、彼女と一緒に暮らし、常に彼女の影響を受け続けていました。子供たちは常に彼女の医学的監視下にあり、彼女を無条件に信頼し、彼女の助言がいつも彼らを困らせているにもかかわらず、何事にも彼女に従順でした。
この「療法」の実際の結果は無視して、彼女は友人たちに想像上の成功を報告してもいました。特に生のジャガイモの奇跡的な特性について話し、「ジャガイモのおかげで子供たちが助かった」と言いながら、この手段を実践するように促したのです。そうやって新しい知人を増やしつつ、「私は民間療法家として成功している」と主張しながら、家庭を新しい実験の場として利用し続けました。
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名声と人気のためであれば、デルタ・クアドラは非常に遠い理想を目指して飛び続けることが出来ます。「研究作業」の過程で発生する「コスト」は、デルタ・クアドラではあまり考慮されません。彼らは冷静に「被験者」の忍耐力の限界を見極めながら、「人は基本的に、多くのことができる」と結論づけます。そうしてゲームは新たな段階へと進んでいくため、被験者はより多くのリスク、より大きな出費と犠牲を強いられることになります。
しかしその後で、自分の成功について友達と話すのはとても素晴らしいことです。それを自慢することは、なんと楽しくて有益なことでしょう。
実験成功の先にはどんな地平が広がっているのでしょうか。きっと新しく有益な人脈ができたり、良い知り合いができたり、友達の輪が広がったりもすることでしょう。新しい「モルモット」を見つけて、新しい実験や新しい競技に参加させることもできます。デルタ・クアドラは、自分の成功体験や願望を示すことで、彼らを興奮させ、刺激します。
また、実験結果を将来の設計や目標に有益に活用することができます。例えば新しい有力な友人たちに、少しハッタリを利かせて、自分のことを医者・精神的な指導者・カウンセラー・コーチ・ヒーラー・マネージャー・リーダーであるとして宣伝することができます。そしてそれが収入に、明るい未来(少なくとも個人的、物質的な幸福という意味で)に繋がります。さらにデルタ・クアドラは、その成果を朗々と発表し、あらゆる場面で誇張し、際限なく煽り立てて、自分の価値をつり上げます。
そのような成功者や影響力のある人物の「翼をもぎ取る」勇気など、おそらく誰にもないでしょう。誰も翼を得たデルタ・クアドラに対して異議を唱えたり、意見に反対したり、冒涜的な人だと暴露したり、プロジェクトから遠ざけて、彼らの「星空」から追い出す勇気はないのです。
彼らデルタ・クアドラは、自分の影響力、権威、高まる人気、そして 「もぎ取られた翼」コンプレックスの強力な防御力によって、彼らの星空から追い出される脅威すべてから守られています。
訳注
- ^ 機能についているプラスはエボリューション的(建築的・肯定的)、マイナスはインボリューション的(再構築的・否定的)という意味。関連記事「ソシオニクス デルタ・クアドラ (1)」
- ^ 一連の実験に関する記述は、デルタ・クアドラの中でもIEEの特徴として紹介されている内容に近い。参考「ソシオニクス IEE(ENFp)by Stratiyevskaya」