「もぎ取られた翼」コンプレックスに対する保護手段の開発としての道徳的優位性
屈服させられないようにしつつ、他人に譲歩させる力こそ、デルタ・クアドラの持つ大いなる強みの一つです。
「他人のことを考えなさい」
「他の人に、あなたの権利を譲りなさい」
「相手の利益のために、自分の特権を手放しなさい」
これらのスローガンは、まさにデルタ・クアドラの「コントローラー・メンター」が、他人の権利と主導権を制限しつつ、自分が最大限に力と可能性を発揮したり、制約に縛られないための手段として用いられる言葉であることがわかります。
彼らは誰にも従属せず、他人を支配し服従させます。彼らの創造的なイニシアチブ、野心、想像力の飛行を妨げるものは何もありません。
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デルタ・クアドラは、天国は誰にとっても自由であり、(少なくとも理論上は)誰もがそこにアクセスすることが出来るという考えを持っています。この考えを言い換えると、「誰もが自由に創造的な表現を行う権利を持っている」という意味になります。
誰もが壮大なプロジェクトで才能を実現し、社会に利益をもたらし、社会を大きく前進させるために、無限に才能を伸ばす権利を持っているのです。
そこでは創造的な「飛行」が頻繁に行われます。また、積極的で創造的な活動が(たとえ想像上のものや、条件付きのものであっても)奨励されます。
「創造せよ!離陸せよ!しかし他人の邪魔はするな!」
したがって「天国」、すなわちデルタ・クアドラの創造とビジネスの取り組みの領域は、地上にあるガンマ・クアドラやその他のクアドラの致命的で不毛な地と同じくらい過密で混雑します。
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デルタ・クアドラの大胆な創造的探求と野心的な挑戦が行われる「空域」には、とあるルールがあります。
それは、万一誰かと空中で衝突してしまった場合、相手に大ダメージを与えて、相手に取り返しのつかない損害を与えないために、極めて丁寧に注意しなければならないというルールです。このようなルール(もとい注意書き)が、デルタ・クアドラの空域のいたるところに書かれています。
ルール違反者は、チームから疎外され、ビジネスから追い出され、あらゆる場面で再教育させられることになります。その再教育において、違反者はブラックな方法で容赦なく「破壊」されます。そして絶望した違反者は、天国から遠い地への逃亡を強いられることになります。
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デルタ・クアドラは、主導権を握り、主導的な立場に立つために、これらのルールを回避します。自分の意見、意志、希望、行動計画、取り組みに少しでも抵抗があると、敏感に反応します。
そして、デルタ・クアドラでは、「これは理解できるし受け入れられることである」と認識されています。
デルタ・クアドラが持つ自然な(「貴族主義」的な)支配欲求に応じて、積極的に自分の意志を押し付けるというニーズ(攻撃性の特性の不均一性)のおかげで、彼らは階層的に自己組織化し、社会的システム内に縦のつながりを確立することが出来るからです。
また、倫理的優位性の積み重ねを通じて、道徳的な優劣を主張すること(+ Fi↑)も選択肢の一つです。
この選択肢は、表面的で幻想的な平和の追求の際に現れるものです。このせいでデルタ・クアドラは(特に「幼児的」である「倫理タイプ」、具体的にはIEEとEIIは)しばしば被害者的な立場に落ちる傾向があります。
周囲の人々が耳を貸さないせいで、デルタ・クアドラは彼らの持つ前向きな倫理的動機に対する無理解に直面するのです。
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デルタ・クアドラは相手に「ギブ・アンド・テイク」のゲームを押し付け、(少なくとも礼儀として)譲歩しあうことを求めます。
しかしデルタ・クアドラが相手に与える「愛、友情、相互扶助という寛大かつ誠実な申し出」に対して、相手が「野暮ったく、愚かで、ただ一方的に消費するだけという態度」をとると、デルタ・クアドラは気分を害し、失望してしまいます。
彼らが夢見ていた互恵的で快適でリラックスした交流は崩れ去ってしまいます。結局のところ、世界はそのような純粋で高尚な関係を受け入れる準備ができていなかったのです。
緊迫感と混乱を同時に感じさせられるような感覚、押し合いへし合い、目もくらむような高さから投げ飛ばしあったり、容赦なく互いの翼を斬りつけ合うような、暴力的で悪辣な争いが繰り広げられているという感覚が、デルタ・クアドラを襲います。
言葉による説明が試みられたとしても、誰もそれに耳を傾けて、互いを理解しようとはしない世界です。
この苛立ちと失望に満ちた現実のすべてを拒絶するために、「罰を与えたい」という願望がデルタ・クアドラの心の中に湧いてきますが、これは彼らが仮定する倫理原則(その中でも特に重視される、謙虚さと寛容)にはそぐわない願望です。
しかし、戦いの後で「拳を振る」機会はあります。失われた自分の特権を思い出して、それを取り戻すことが出来るのです。
この場合の「拳」は、具体的には、相手を「再教育する」という形で振るわれることになります(特に相手が親しい人やパートナーであれば、これが実行されることが多いです)。相手と真剣に話し合い、相手の行動を非難し、相手のどこが悪かったのかを思い出させ、「未来のために教える」ことができるのです。
文句を言うべきことを最初に見つけた人が、主導権を握ることになります。最初に不満を口にする人、最初に指導者(メンター)の役割に立った人が、「報告会」を行い、最後の言葉 [1] を言います。彼は「コントローラー」となり、二人の関係を支配する人になります。
そしてパートナーは「罪を犯した人」という役割を押しつけられ、デルタ・クアドラに従属するような立場に追いやられます。そして、ことあるごとに行動をコントロールされ、過去の(現実の、または想像上の)罪を思い出させられることになります。「間違ったことを言った」「正しい見方をしなかった」「傲慢な態度で人を怒らせた」などなど、ここでの罪に際限はありません。
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「支配者」は、被支配者の「病棟」での行動を制限する権利を求めて闘い続けます。被支配者の行動、人脈、人間関係を監視し、叱責し、さとし、指示しようとするのです。そして被支配者からの要求は過大な要求だと切り捨てて、被支配者にさらなる譲歩を強いようとします。
被支配者の行動に対する評価や態度を恣意的に変えることによって、被支配者(あるいは、ここまでくると「部下」と言えるかもしれません)をどんどん屈辱的な下位の立場に落とそうと画策したりもします。
さらに、被支配者が自分に依存せざるを得ない状況を作ろうとします。一度この依存関係を確立したら、支配者は伝統、習慣、儀式によって、その関係をますます強固なものにしようとすることでしょう。
「部下」には一定の頻度で自分の行動を報告し、支配者からの批判に耳を傾け、支配者の命令を受け取り、さらにその命令に対する報告をするという義務が課せられます。
その関係を変えようとする被支配者の試みは、「指導者(メンター)」に深い失望と不快感を与えます。時間を無駄にした、「その人を再教育する」という希望が叶えられなかった、努力が実を結ばなかった、などといった失望と不快感です。
この支配者が感じた新たな失望、破壊された幻想、侮辱のすべてに対して、「コントロールされた側の人(被支配者)」は再び答弁をしなければなりません。そしてこの結果にかかわらず、被支配者に対する「教育」はより激しさを増すことになります。
また、支配者は自分の「努力」に対して被支配者が「それに見合う対価」を支払うべきだとも考えます。こうして「支配者」は(現在と未来において自分が負担したすべての「コスト」の回収を期待しているため)、自分自身が「教育プロジェクトの犠牲者」であること、つまり対価に見合わない「教育」をさせられている「詐欺」被害者であるという考えに至ります。
もし被支配者が、自分の仕事の本当の成果に直面し、自分が無力で生存能力のない「ゾンビ」、エイリアンの手の中の操り人形、エイリアンの野心と悪意の犠牲者であることに気付き、支配者に「賛辞」を送ったり、支配者の「善」に一切感謝を示さないのであれば、この歪んだ関係を解消できるかもしれません。
支配者に束縛され、支配者の奴隷になって自分の過去と現在を不自由なものにしている限り、未来のチャンスはありません。このような生き方は、真っ当なものだとは到底言えない生き方です。
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デルタ・クアドラは、自分の正しさを妄信する癖があります。そのせいで彼らは「指導者としての自分の間違い」を認めることがなかなか出来ません。
自分の有罪を示す真の証拠を突きつけられた場合、デルタ・クアドラはいかにも「気分を害した」という振る舞いをしてみせることはありますが、「自分自身に罪がある」とは考えません。
デルタ・クアドラの直観タイプ(IEEとEII)の見せる、偽りの多義的なパトスや特徴的な「高尚ぶった態度」は、デルタ・クアドラ・コンプレックスの表れとして一般的によく観察されるものです。
デルタ・クアドラ・コンプレックスは、「自分を取り巻く現実から自分を切り離して、他人の手が届かず、客観的な評価基準を適応できないような、主観的な理想主義の高みに居続けたい」「肥大した自尊心を満たすために、自分の閉じた自己満足の世界に居続けたい」「他人と比較できない存在のままでいたい」という欲求として現れることが多いです。
訳注
- ^ 話し合いで「一番最後に出される言葉」、つまり最終的な結論になるような言葉、意見、行動。