監督関係となるタイプ
監督者 → 被監督者
右リング - 下記のタイプは全て二分法「プロセス」になります。
SEI → EIE → ILI → LSE → SEI → ...
ILE → LSI → SEE → EII → ILE → ...
左リング - 下記のタイプは全て二分法「結果」になります。
LII → IEE → ESI → SLE → LII → ...
ESE → SLI → LIE → IEI → ESE → ...
例:SEIとEIEの場合、SEIが監督者、EIEが被監督者です。
EIEとILIの場合、EIEが監督者、ILIが被監督者です。
はじめに
監督関係(Supervision)は、監査関係(audit)や改訂関係(revision)とも呼ばれます。
これは、一方のパートナー(監督者; supervisor、監査人; auditor、改訂者; revisor)が、もう一方のパートナー(被監督者; supervisee、被監査人; audited、被改訂者; revised)に対して心理的に強い立場にあるという非対称的な関係性です。
片方のパートナーが強い立場になる理由は、機能の相関関係から説明できます。これは、監督者の主導機能(第1機能)によって、監督者が被監督者により多くの心理的圧力をかけることができるからです。
通常、被監督者が監督者に近づくと、被監督者はどことなく警戒心を感じてしまったり、言葉に気を付けようとします。この生まれ持った警戒心は、条件がそろえば監督関係症候群に発達することもありますが、お互いに相手を支配するような立場になく、監督者が被監督者との間にある自然な境界線を踏み外してしまわない限りは、十分に制御可能な範囲内に留まることもあります。
一般的に、監督関係の共通基盤は、監督者の創造機能(第2機能)と、被監督者の主導機能(第1機能)が共鳴することで構築されます。被監督者が絶対的な価値として表現する態度は、監督者にとっても価値のあるものですが、監督者にとっては「より重要な追及の副産物程度のもの」に感じられます [1]。
また、被監督者の暗示機能(第5機能)と、監督者の動員機能(第6機能)が一致するため、これを介して共通認識に至ることも可能です。しかし、第5機能、第6機能の性質上、両者ともに「価値を感じる」一方で「弱い」ため、実際に一緒に行動するのではなく、それについて話し合うだけで終わってしまいがちです。
◆◆◆
監督者は、被監督者の言動に興味を持ちますが、それと同時に自分の主導機能(第1機能)の観点から、しばしば「被監督者を修正・再構築しなければならない」と感じます。
監督者の主導機能(第1機能)と一致しているのは、被監督者の脆弱機能(第4機能)です。そのため、監督者からの発言に、しばしば被監督者はフラストレーションを感じることがあります [2]。
監督者と被監督者の間で議論や言い争いをして、両者の視点の違いゆえに、監督者が被監督者の思考スタイルや物事のやり方の「欠点」と思われる部分を指摘した場合、被監督者からすると、その指摘が人格攻撃じみたものに感じられる可能性があります。このような時、監督者自身は被監督者を非難するつもりはありません。しかし敏感な脆弱機能を刺激された被監督者は、それを非難だと感じてしまう可能性があるからです。
◆◆◆
同居している場合、被監督者は監督者の期待に応えることができません。被監督者自身、「自分は監督者から真の評価を得ることができない」と気が付くかもしれません。
監督者は、仕事上の関係や友情関係がうまくいくように、被監督者の弱点について言及するのを避けて、自制しなければなりません。
被監督者側の不快感は、かなり激しくなることがありますが、一見しただけでは分からないことも多いです。
被監督者は通常、自分の感じている不快感を親しい友人にしか打ち明けません。被監督者が監督者に対して子供っぽくならないよう伝えるのは困難です。監督者からすると、被監督者が過剰反応しているように見えてしまうことでしょう。
恋愛では、被監督者の実証機能(第8機能)を見て、監督者は魅力を感じることが多いですが [3]、最終的には被監督者の実証機能の散発的な働き方では満足できなくなってしまいます。
一方、被監督者から見た場合、監督者は「賞賛に値するものの、少し困惑させられる人物」として見ることになります。
さまざまな著者による説明
Valentina Meged, Anatoly Ovcharov
監督関係は、非対称な関係の中で最も困難な関係です。
最初、被監督者は、自分の正しさを疑うことのない監督者の頑固さや、「自分のほうからは折れたくない」という態度に、より苦しめられることになります。
被監督者は、「監督者が自分に不満を持っていて、自分の価値観を押し付け、再教育しようとしている」と感じてしまいます。そして被監督者は、監督者が間違いを犯すたびに監視を強め、「自分は悪くない」と納得しようとします。
両者の疑いと頑なさは、関係の破綻にも繋がりかねないものです。この関係ではせいぜい「自分にとって難しい問題を解決する能力を相手が持っている」と互いに評価する程度に留まります。
◆◆◆
監督関係では、監督者が過度に自分の原則に固執せず、被監督者を傷つけないようしている限りは、相互理解が成立します。
しかしもし監督者がそのようなことをしてしまうと、被監督者は監督者とのコミュニケーションを避けるようになったり、監督者が被監督者をいじめるような関係になってしまうかもしれません。
監督者からすると、被監督者は頭の回転が遅い人に見えたり、責任逃れしようとしている人に見えてしまいます。そして、監督者は、被監督者をサポートしたい、あるいは何かを教えてやりたいという願望を持つようになっていきます。
しかし、被監督者は、そういったアドバイスや要求を受け入れようとしません。それによって監督者は困惑したり、場合によっては怒りを感じることさえあります。
両者の間の不満について話し合うと、明確な対立に繋がる可能性があります。相手の不満が根拠のないものに見えてくるだけでなく、相手の欠点がさらに気になってきます。
◆◆◆
もし、監督者が被監督者を再教育しようとするのをやめて、妥協の余地を与え、被監督者が監督者の欠点を指摘するのをやめれば、この関係は刺激的で実りあるものになります。
ただし、この関係において主導権を握るのは監督者の側であって、被監督者はあくまでも従う側であることを、両者とも忘れてはなりません。
指導者は人道的でなければなりませんが、それと同時に被監督者はリーダーシップをとろうとしてはいけません。
◆◆◆
個人的な生活でも、あるいは医療などの他の分野でも、ソシオニクスの応用の可能性は過小評価できません。
残念ながら、多くの医師にとって、なぜ手術や治療が成功したにもかかわらず、患者の一部がなかなか回復しないのか、謎のままです。
この原因は、同室の患者同士の関係性にあります。道徳的に憂鬱なコミュニケーションで抑圧する同室者がいて、それが負担になっているのです。
ソシオニクスの基礎知識が、より調和のとれた社会と人間関係の構築において、将来世代の役に立つことを願っています。
O.B. Slinko
「The key to heart - Socionics」より
監督関係は、より厳しい関係です。監督者の主導機能(第1機能)は、被監督者の脆弱機能(第4機能)と一致します。しかし衝突関係とは違って、この厳しさは非対称なものです。
監督者は、被監督者の全ステップを監視できますが、被監督者には、これに抵抗する力がありません。被監督者の強い機能は、監督者の機能によって「溺れる」ような状態に陥ります。
被監督者は抵抗を試み、反撃しようとさえします。監督者の粗野な部分をつきつけて、監督者に命令し、課題を与えます。この被監督者の抵抗は、物理的な力の行使にまで及ぶこともあります。
◆◆◆
このように、被監督者は、監督者に対して多くの問題を引き起こす可能性があります。しかし、この逆方向では、より大きな問題が起こり得ます。
例えば、監督者と被監督者が家族関係である場合、被監督者にとって悲惨な結果に繋ってしまう危険があり、時には精神疾患を発症させることさえあります。
それよりも好ましい関係性である場合、つまり言い換えるとコミュニケーションの時間が短く、互いに一定の距離を保っている場合、あるいは監督者が意識的に自分の主導機能(第1機能)を「無効化」した場合、被監督者にとって、監督者は尊敬に値する人物であるのと同時に、不安を感じさせられる人物に見えるかもしれません。
◆◆◆
監督者からすると、被監督者は素晴らしい能力を持ち、才能に恵まれている人物に見えることさえありますが、それと同時にどこかしらに欠点があって、「可哀そう」で、同情に値する人物にも見えます。
この監督関係という関係の意義は、社会的秩序の実現にあるのかもしれません。監督者の受益者にあたるタイプは、被監督者の双対にあたるタイプだからです [4]。
R.K. Sedih
「Information psychoanalysis」より
疑似同一関係と鏡像関係の組み合わせとして、この関係を見てみようと思います。
【自我 - 自我 + 超自我ブロックの相互作用】
監督関係は、確かに両者が精神的に発達すればするほど良好な関係になりますが、理想的なレベルに発達した場合であっても、特に両者の双対がいない場合は、長期的に関係を続けると負担になってしまいます。
負担になってしまう理由は明白です。それは、両者が互いの視点に固執して、相手をあまりにも批判的に、口うるさく、疑り深く見ているからです。実際この関係では、何度も繰り返し相手を試そうとする傾向が見られます。
一緒に暮らすことを余儀なくされた場合、この絶え間ないチェックのせいで、心底消耗しきってしまうこともよくあります。
監督関係の間で生じる不快なプロセスに終止符をうつのは、たとえ双対タイプであっても困難なことです。
しかし距離を置けば、互いの疑心暗鬼はなくなります。こういった条件下では、「疑似同一関係」と比べても、さほど悪い関係ではありません。時には、相手の思考回路の予想外さが、非常に魅力的に見えることもあります。
◆◆◆
【超イド - 超イド + イドブロックの相互作用】
この相互作用は、独自の問題を提示します。
互いに助け会うために、両者は誠実に努力しようとするのですが、それにも関わらず、どれほど有益な援助をしても相手はその援助をほとんど受け入れようとしません(これは監督関係ゆえに生じる相互不信のせいです)。
監督関係は、結婚にはあまり向いていません。共同で何かの活動に取り組む場合は面白さを感じますが、それぞれの双対タイプも一緒にいて、互いに休憩することができる場合は、さらに簡単に事が運ぶでしょう。
E. Shepetko
「Descriptions of intertype relations」より
監督関係は非対称な関係です。以下の説明は、被監督者側からの説明です。
「あなたの監督者は、あなたの良心です」
これがこの関係を特徴づけるものです。
被監督者は、監督者の言葉に耳を傾けます。なぜなら監督者は、被監督者が解決できない問題を解決したり、軽減したり、あるいは問題を明らかにすることが出来るからです。
監督者は、被監督者に内在する問題を顕在化し、解決に導くことが出来るタイプです。しかし同時に監督者は、被監督者が苦痛に感じるテーマや、プライベートなテーマに公然と触れて、被監督者が苦手なことを要求します。監督関係は相反する関係なのです。
被監督者が放置しておこうと考えている分野では、監督者の存在は目障りになってしまいます。
◆◆◆
監督関係には、互いの言葉や目的への理解の深さが異なります。
被監督者からすると、監督者の言葉や目的は、部分的にははっきり理解できます。その一方で、監督者は被監督者の言葉や目的を理解していません(監督関係は非対称な関係性です)。そのため被監督者が欲しいと思っているサポートを、監督者から得ることは出来ません。
この関係は、一方的な衝突関係とも呼ぶことが出来る関係です。
Laima Stankevichyute
これは、最も人が傷つきやすく、自己防衛が出来ないタイプ間関係です。監督者の第1の要素と、被監督者の第3の要素は頻繁に衝突します [5]。
監督者は、被監督者に対して最も攻撃的な言葉で話しますが、監督者自身にとってもこの関係は快適な関係とは言えません。被監督者が、無意識のうちに、執拗に監督者を悩ませ、苛立たせるからです。
監督関係では両者ともにストレスを感じることになりますが、この関係性は非対称であり、より苦しむことになるのは被監督者側です。
I.D. Vaisband
最も危険なタイプ間関係のひとつです。
定期的に、互いの最も痛い部分を刺激し合う関係です。
被監督者は絶えず監督者に苦しめられることになりますが、それに対して「反撃」できません。その一方で、監督者側も、被監督者に迷惑だと感じます。
被監督者は非常に強い不快感を感じることになります。被監督者からすると、監督者は「細かいことに煩くて、あまり触れられたくない問題にばかり執拗に触れたがる人物」に見えます。
A.V. Bukalov, G. Boiko
「Why Saddam Hussein made a mistake, or what is Socionics」より
この関係は非対称であり、非常に欺瞞的で危険な関係です。一方のパートナー(被監督者)が、もう一方のパートナー(監督者)から社会的に監督される関係にあたります。
監督関係には「監督者が被監督者の行動に、常に不満を感じる」という特徴があります。被監督者がイニシアチブをとろうとしたり、自分の考えを示そうとすると、監督者はそれを修正しようとしたり、批判しようとします(被監督者からすると、頭ごなしに批判されているように感じるかもしれません)。
被監督者は、それに反論できません。監督者は、被監督者にとって抑圧的な存在となってしまうのです。被監督者からすると、監督者はどうしようもない理由にばかりこだわって、いつも不満ばかり言っている、うるさい小心者・迷惑な人間に見えてしまい、そんな全てに嫌気がさして、「もう付き合いたくない」と感じてしまいます。
しかしその一方で、被監督者は「もしかしたらそんなに悪い人ではないかもしれない。監督者のそういう面も、我慢できるかもしれない」とも感じます。
しかし、これは大きな間違いです。監督者は被監督者に対して、「自分の知性より、被監督者の知性が抜きんでないようにする」という圧力をかけ、コントロールしようとするからです。これは被監督者の精神と機能に永続的な悪影響を及ぼします。この結果、被監督者は様々な神経症や心身症を発症してしまうかもしれません。批判を回避するために、身体が「病気になる」という逃げ道を選ぼうとするのです(普通、健康な人でいるよりは、病気になったほうが批判されにくいためです)。喘息などの病気になるケースもあります。
◆◆◆
監督者は、被監督者を批判しますが、それと同時に「自分無しでは、この人(被監督者)は、やっていけないんじゃないだろうか」と感じて憐れみもします。
衝突関係と違って、監督関係は縁を切るのがかなり難しい関係です。本人に与える影響が非常に大きいという点で、これは危険な関係だと言えます。
Victor Gulenko
「Criteria of reciprocity」より
【監督者 ⇒ 被監督者:見当はずれの恐れ】
この関係におけるコミュニケーションには、ある種の優越感があり、自分(監督者)の価値を感じられるという点で魅力があります。
監督者からすると、被監督者の行動や発言が、主目的から逸脱した不適当なものに見えてしまうため、彼らはこういった不適当な言動を抑制するように働きかけようとします(被監督者からすると、これは不本意な抑圧だと感じられます)。
しかし被監督者が怒り出さないようにするために、監督者は「不適当だ、修正したい」という思いを、自分自身で抑圧することもあります。
監督者には「被監督者を助けたい、面倒をみたい」という気持ちもあります。
監督者の行動が「個人的な敵意」からのものではなく、「見当はずれの方向に進んでしまうことへの恐れ」からのものだと、被監督者側が理解した場合、被監督者は(監督者が望む方向へと)行動を変えるかもしれません。しかし、被監督者がそうした理解に至らなかった場合は、関係が終わってしまうこともあります。
【被監督者 ⇒ 監督者:見当はずれの介入】
監督者の考え方や行動スタイルに、強い魅力を感じます。監督者から、興味深く価値のある情報を得ることができますが、同時に不完全で不明瞭な情報にも見えます。それを指摘すると、ほとんどの場合は言い争いになってしまうでしょう。ただし、すぐにではありませんが、被監督者側からの指摘を、監督者は考慮します。
もしも監督者が恥ずかしげもなく自分の意見を押し付けようとする場合、その人との関係はそれっきり終わってしまうかもしれません。しかし、もしも縁が切れることなく、被監督者の有能さを監督者が理解した場合、監督者は被監督者に助言を求めるようになります。
◆◆◆
読者は、上記のような非対称の新しいタイプ間関係があることに驚いたかもしれません。こうした非対称の関係性が存在する理由として、下記の二種類が考えられます。
まず第一に、タイプ間関係は(オーシュラが考えた14種類ではなく)16種類でなければなりません(要求関係と監督関係には、要求者→被要求者、被要求者→要求者、監督者→被監督者、被監督者→監督者という4種類の関係があります)。
第二に、社会的進歩において、インボリューションリングではルールが逆になります [6]。要求関係と監督関係それぞれに、エボリューションリングを構成する関係と、インボリューションリングを構成する関係がそれぞれ1つずつ存在します。
エボリューション的な監督関係 [7] は「逸脱の抑制」というべきものであり、インボリューション的な監督関係 [8] は「より正確な定式化と追加の要求」というべきものです。 (エボリューション/インボリューションは、別名「プロセス/結果」とも言われるレーニン二分法のひとつです)
◆◆◆
監督者と被監督者の違い:
外部からの影響が限定的な場合に限り、バランスのとれた関係になります。そういう条件下であればこそ、監督者が被監督者の内面に影響を与え、変化させることができます。外部からの介入がある場合、この関係はただの耐え難い関係にしかなりません。
健全な監督関係では、監督者も被監督者も、一度合意したことを無しにするような突発的な行動をとったりはしません。
もしそういったことをした場合は、相互不信に陥ってしまうため、非常に破壊的です。
監督関係では、意見が一致しない場合の議論が促進され、そうでなければ問題が内々に蓄積していくことになります。問題を感じているにも関わらず、それを無視するのは、将来の感情的な大爆発の最初の前兆です。
◆◆◆
被監督者→監督者の関係として見た場合、この関係は思考をより論理的な方向に強化する性質があります。
被監督者は、監督者の全ての非論理的な発言・行動に気がつきます。被監督者は、監督者の矛盾をあばき、推論の誤りを明らかにしなければならないと感じるかもしれません。
監督者→被監督者の関係として見た場合、秘められた気持ちの関係だと言えます。
被監督者の行動に対する否定的な評価にも関わらず、監督者はしばしば被監督者をゆるします。監督者は、最終的には被監督者を「再教育」したいと望んでいます。
監督者が、被監督者の行動に対していきなり反発してしまうことはありますが、これは恥知らずで不謹慎な方法で行動した場合だけです。
監督者は被監督者に同情し、かわいそうだと感じます。被監督者の弱い機能を励ましたり、抑えたりしようとしますが、そこには何の工夫もありません。
被監督者→監督者の関係は、注意深さと徹底性を強化します。被監督者は、監督者の行動の細部に多くの注意を払い、ほとんど全てのステップを監視し、監督者についての正確な情報を集めようとします。この関係性は、人を鍛えるのと同時に、視野を狭めてしまいます。
監督者→被監督者の関係は、直感的な関係です。監督者は、特定の状況における被監督者の行動をコントロールすることはできません。監督者がすることは、ただ長い時間をかけて被監督者の内面世界に影響を及ぼし、被監督者の信念の体系や共通の認識を変化させるだけです。監督者からの作用は、物理的ではなく心理的なレベルで行われます。この教育的効果は、プラスであれマイナスであれ、長い時間をかけて実現されます。
監督関係とは、ある安定した状態から別の状態への、痛みを伴う変遷のプロセスです [9]。
監督者は、常に同じ価値観と行動様式を被監督者に押し付けていますが、被監督者は頑なに抵抗します。その抵抗の一環として行われる、被監督者による「監督者の判断や行動に欠点や間違いを見つけようとする」アプローチが変わることはほとんどありません。
このような関係では、お互いに最大限の寛容性と人間性が求められることになります。
監督者は被監督者に作用し、影響を与え、被監督者の内面世界を自分のイメージ通りに作り変えます。被監督者は、(批判的にではありますが)監督者を高く評価し、監督者と同じ内的資質を獲得しようとします。
互いに牽制し合う中で、互いに許容できる行動パターンが磨かれていきます。
やがて監督関係の緊張が最高潮に達し、しばらく揺らいだ後、一気に弛緩するという事態が起こるかもしれません。これは、監督関係が最終段階に入ったこと、つまり教育的使命が終わり、エネルギーの飽和がなくなったことを意味しています。
◆◆◆
付き合う上でのアドバイス:
監督関係には2つの進展の仕方があります。
ひとつは、監督者のほうが積極的で、被監督者がそれに従属している場合です。このパターンにおける監督関係は、指導的・教育的な性格を帯びます。
一方、被監督者が監督者に抵抗している場合の監督関係は、批判と支配の性格を帯びます。
監督関係が安定するのは、互いの作用が穏やかで、バランスがとれている場合に限られます。サプライズを避け、共同で一日の計画を立て、計画の変更を警告し合い、問題があれば、感情的にならずに直接話し合う必要があります。
監督者は、被監督者が冷静に分析し、結論を出せるように、辛抱強く情報を伝えなければなりません。もしも監督者が個人的な問題を相談してきたら、快く慰めて、困難な状況での被監督者の行動を正当化してあげなければなりません。
監督者は、外の世界からの荒波から被監督者を守り、世話をしながら、監督者が影響力を持っている領域 [10] で関係を築く手伝いをする努力をすべきなのです。
◆◆◆
監督者と被監督者の持つ批判的な態度には、違いがあることも理解しておくべきです。
被監督者は、監督者の特定の行動を批判しますが、全体としては許容しています。
その逆に、監督者は被監督者の個々の欠点や行動は許しますが、立場や信念といった全体を批判しているのです。
V.V. Gulenko, A.V. Molodtsov
「Introduction to socionics」より
ソシオニクスには、非対称な関係性が2種類存在しますが、そのうちの1種類がこの監督関係です。
監督者は、まるで常に被監督者を監視し、被監督者の弱点に注意を向けており、いつも「被監督者が何をしているのか、どのようにして行っているのか」を把握しようとしているような印象を受けます。
しばしば被監督者は、自分がモルモットのように観察されている気分になります。監督者は被監督者を監視するものの、常に欠点を言葉で指摘するわけではありません。しかし、被監督者は内心、「監督者がそうしようと思えば、いつでもそうできること」を感じ取っています。そのため最初、被監督者は緊張状態を強いられることになります。
被監督者にとって、監督者は重要な人物であり、その行動は注目に値するものだと感じます。監督者からの評価を得たいと望んでおり、監督者からの賞賛は非常に喜ばしく感じられます。
◆◆◆
しかし、監督者は常に被監督者を過小評価します。被監督者の考えや行動を、まるで取るに足らないもののように扱います。監督者のそういった態度は、被監督者を苛立たせるには十分なものです。
最初こそ「監督者に自分の有用性を証明してやりたい」と思うかもしれませんが、その試みは全て失敗に終わります。被監督者からすると、監督者は「自惚れ屋な小心者」のように見えます。欠点を見つけ出してはそれを指摘し、再教育しようとするからです。
一方、監督者からすると、被監督者は「興味深く、有能な人ではあるものの、足りない部分があって、手助けや提案を求めている人」のように見えます。
しかし、監督者がアドバイスしても、それが全て無駄であるとわかります。被監督者が愚かに見える理由は、「できないから」ではなく「単に聞く気がないから」という風に監督者は認識します(実際には「できないから」なのですが)。これは定期的に起こる監督者のフラストレーションの原因になります。
この関係は、監督者が「被監督者の後見人」のような関係ということができるかもしれませんが、被監督者にとっては非常に迷惑なことです。
自分の脆弱性を知った被監督者は、監督者からの支配から逃げ出そうとします。そうして、特に他人の前で監督者を出し抜こうとしたり、議論をふっかけようとしたり、命令しようとする傾向があります。
しかし、この試みは実を結びません。なぜなら、監督者は悪びれることなく「再教育」し続けようとするのが普通だからです。
この関係は「母親と乳飲み子」のような関係です(「ピグマリオン計画 [11] 」も参考になります)。
◆◆◆
監督関係のカップルは、非常に密接に結びついています。その理由は、両者が自分の社会的意義を感じることができるからです。監督者には「保護者」や「恩人」としての価値があり、被監督者には「監督者の世話や支援を必要とする存在」としての価値があります。
監督関係では「再教育したい」という感覚が見られますが、要求関係ではそれが見られません。要求関係における要求者は、被要求者を再教育しようとはしません。
Ekaterina Filatova
「Art of understanding yourself and others」より
監督者の最も強力な機能(第1機能)が、被監督者の脆弱機能(第4機能)を押さえるような形で配置されています。
その一方で、被監督者は監督者の脆弱機能(第4機能)に直接アクセスできません。
これらの関係の特殊性は、監督者側はプレッシャーを感じないにも関わらず、被監督者に危険なほど接近できるという、その非対称性にあります。
両者ともに危険を感じる関係には「衝突関係」がありますが、もちろん衝突関係では上述したような非対称性は見られません。
ソシオニクスの全16タイプそれぞれには、監督者と被監督者がいます。
監督者と被監督者の連鎖を繋げていくと、4タイプで1周します(これを監督リングと呼びます)。
◆◆◆
自分の第1機能を重視すればするほど、第1機能の側面に関わる話をしたくなるのは自然なことです。これは監督関係における監督者にも当然言えることです。
他の人々は彼の発言に関心を持つかもしれませんし、あるいは無関心かもしれません。しかし、被監督者は無関心ではいられません。彼らは、どんな無害な発言にも過敏に反応してしまい、心に刻み付けてしまいます。なぜなら、ここで彼らの脆弱機能に圧力がかかっているからです [13]。
一般的に、親密な間柄であればあるほど、監督関係の危険性は増大します。特に家族関係では、非常に近い距離のコミュニケーションが行われるため、この傾向が強いです。こうした状況のコミュニケーションのプロセスは、全ての機能を使用したものになるため、かなり厳しさが増してしまいます。そして、こういったコミュニケーションを避けられない場合、被監督者は精神疾患を患うことさえあります。
筆者は、夫がLSI、妻がSEEである比較的裕福な家庭で、仲良くやっていた例を知っています。この夫は、三か月に一度は出張に出かけるような仕事に就いていましたが、それでも妻は夫からのプレッシャーを感じていました。とはいえこの家庭では、離婚の話が登場したことはありません。
Eugene Gorenko, Vladimir Tolstikov
「Nature of self」より
ソシオニクスに2種類ある非対称な関係のうちのひとつです。
被監督者にとって、これはかなり不快な関係です。監督者のちょっとした言動にまで反応してしまいます。その一方で、監督者は自分がそれほどまでに強い影響を与えているとは思っていません。
被監督者の立場から見ると、おそらくこの関係は、例えば衝突関係よりもさらに苦痛な関係です。
Sergei Ganin
この関係は、要求関係と同じく非対称な関係です。監督者と呼ばれる一方のパートナーは、被監督者と呼ばれるもう一方のパートナーよりも、常に有利な立場にあります。
監督関係では、監督者が被監督者の一挙手一投足を常に監視しているような印象を与えることがあります。通常、監督者が具体的に何かを言葉にして発言していなかったとしても、監督者からの支配的な圧力を感じます。
この理由は、被監督者の弱点 [12] が、監督者の強み(第1機能)に無防備だからだと考えられます。このせいで被監督者は過敏になり、悪い想像ばかりをしてしまいます。
◆◆◆
被監督者からすると、監督者は「自己満足的で、些細なことを気にしすぎていて、欠点が多く、自分の視点からしか物事を見られない人」に見えますが、それにも関わらず監督者を「正解」として捉えるため、彼らの行動に注意を払っています。
通常、被監督者は、「監督者からの評価や称賛」を求めています。そのため、被監督者は自分の価値を証明するために、様々な行動を起こしますが、それが成功することはほとんどありません。
◆◆◆
監督者は、被監督者のことを「とても興味をそそられる有能な人ではあるものの、同時にどこかしら不完全で、何らかの援助と助言を必要としている人」だと感じます。
しかし実際に援助しても、被監督者は期待通りの反応を示さないため、だんだん監督者は「被監督者を変えてやろう」となっていきます。
被監督者は、「監督者が何を望んでいるのか」を理解できません。しかし監督者はそれを見て「単に理解しようとしないだけ」だと思ってしまい、苛立ちを覚えることもあります。
◆◆◆
監督関係では、監督者が被監督者を見下しているように見えることがあります。そのため、被監督者にとっては「監督者が非常に邪魔な存在」だと感じられてしまうこともあります。
監督者と被監督者以外にも人がいる場合、被監督者は「監督者からの支配から抜け出すため」に、しばしば監督者に議論をふっかけたり、監督者に命令して操ろうとすることがあります。しかしこれらの試みも通常成功しません。
こういう時、監督者は単に「もっと被監督者に注意を払う必要がある」と感じるかもしれません。
◆◆◆
監督関係は、しばしば仲の良い友人同士に見えることがあります。
この理由は、監督者は(被監督者にとってなくてはならない)「守護者」として、被監督者は「注目される対象」として、自分の社会的価値を感じられる関係だからです。
理論的性質
監督リングには4種類のリングがありますが、同じリングで結合されたタイプは、二分法「静的/動的」「プロセス/結果」「肯定主義/否定主義」を共有しています。
Victor Gulenkoは、このリングごとの性質を認知スタイルという観点から考察しています。
訳注
^ 「被監督者が絶対的な価値として表現する態度」とは被監督者の第1機能のこと。
「監督者にとっても価値のあるものですが、」というのは、監督者にとって、第2機能で扱う情報要素は価値を感じるものであるため(第1機能も第2機能も、モデルAの機能二分法では「尊重する機能」である)。
それでも監督者にとってより中核となるのは第1機能であり、第2機能は第1機能に従って働くものであるため、「より重要な追及(監督者にとっての第1機能)の副産物(監督者にとっての第2機能)程度のものという認識になってしまう。
- ^ 監督者の第1機能からの修正要求を受けるのは、被監督者の第4機能。第4機能は脆弱機能、または痛みを伴う機能と呼ばれる。被監督者は第4機能を刺激されることになってしまい、自分の第4機能由来の「痛み」を感じさせられることになる。
^ 監督者の第5機能と、被監督者の第8機能は同じ。
機能二分法に従うと、監督者は自分の第5機能の情報要素に価値を感じるが、自分自身の働きは弱く、外部からのサポートを求めている。
一方、被監督者からすると自分の第8機能の情報要素は、強いが尊重していない。そのため被監督者が第8機能を意識的に、積極的に使ったりはしない。
- ^ 監督者がSLI、被監督者がLIEの場合、SLIの受益者(=SLIの要求+)はESIであり、ESIの双対はLIEである。日本語版ソシオニクスwikipediaで「要求関係」となっている関係は、別名「恩恵関係」「社会的秩序関係」と呼ばれることがある。
- ^ モデルAの場合、監督者の第1機能と衝突するのは、被監督者の第4機能である。この部分の説明は、おそらくモデルA以外のモデルに基づく説明だと思われるが、Laima Stankevichyuteが具体的にどのモデルを使用しているのかはわからなかった。
^ エボリューションリング(右リングとも呼ばれる):アルファ→ベータ→ガンマ→デルタ→アルファの順で監督→被監督が繋がっている。
一方、インボリューションリング(左リングとも呼ばれる)ではクアドラの遷移が逆方向のアルファ→デルタ→ガンマ→ベータ→アルファになる。
- ^ 右リング側のグループ、すなわち二分法「プロセス」になるグループ。
- ^ 左リング側のグループ、すなわち二分法「結果」になるグループ。
- ^ この発想は、社会的進歩(クアドラの遷移)から来ているもの。
- ^ 監督者の第1機能の領域であり、なおかつ被監督者の第4機能の領域。
- ^ ピグマリオン計画:他人を、自分の理想通りの人間に作り替えようとすること。神話のピグマリオンとガラテアから来ている。
- ^ 被監督者の弱点とは、脆弱機能(第4機能)のこと。
- ^ 監督者の第1機能の情報要素を、被監督者は第4機能(脆弱機能)で処理するため。